先週末に Fate/stay night UBW, 昨日今日の土日で Fate/stay night とシリーズ逆順で一気見したので感想。(ネタバレあり)
全体的にはいずれも良作で、原作ファンからも、初めての人向けにも楽しめる作りになっていたと思う。ちゃんと用語解説などが組み込まれていたので、初めての人でもなんとかついていけたのではないか。
特にUBWはアクションシーンはもとより背景なども非常に精緻に描かれており映像として非常に美しい。
全体的に後発のUBWがよりクォリティが高くなっているのは当然であるが、特に話の進行がUBWでは非常にテンポ良く感じた。
また殆どの声優がUBWでも引き続き同じ役を演じていることもあり、UBWで役作りがさらに洗練され、違和感を感じなかった。
Fate/stay night が標準シナリオで衛宮士郎とセイバーの物語でスタンダードな作り。UBWが別ルートで衛宮士郎とアーチャー・遠坂凛との物語になっていて、遠坂凛の可愛らしさや魅力にフォーカスが当たっている。
で、一個不満というか、特にUBW -> 無印の順で見たせいもあってか無印で特にイライラしたのが、肝心の主人公、衛宮士郎のキャラクター。
前回の聖杯戦争のラストで起こった大災害、そこで自分を救ってくれた衛宮切嗣の後を継いで「正義の味方」を目指すのだが、自分の命を顧みず困ってる人がいたら助けに入る。遠坂凛も「空っぽ」「壊れてる」と評しているが自分自身の望みが無く、ただ困ってる人・泣いてる人がいるのが嫌で、それを助けたい。その一心で聖杯戦争に飛び込んでいくわけだが。
イラつくのは「正義の味方になる」という信念を固辞しており、本来は自分を助けてくれるはずのセイバーや遠坂凛と度々方針面で衝突したり、激情に駆られて周囲に連絡せずいきなり外出して敵の罠に誘い込まれたりする。
これは物語を動かすために仕方ないキャラクター設定なのかもしれないが、こうした激情・熱情・義憤に駆られて周囲との調整なしに飛び出し、それ故にトラブルが発生して周囲が必死でフォローして物語が動いていく、という構成には、年齢・経験的にもはや自分では感情移入できないのかもしれない。いやだって、現実世界でさんざんそれでビミョーな状況に陥ってるのを見れば、「創作世界でまでなんで現実世界のNGパターンを見せつけられにゃアカンのだ・・・」とうんざりもする。
しかも士郎の中に聖剣の鞘が埋め込まれてるため、本来は無鉄砲に飛び出し自分の力量も顧みず無策で敵に向かっていきあっけなく死亡、というところが、重傷は追うものの鞘の力で回復してしまう。
頑固な自分の中の信念で周りをかき乱し、自業自得の傷を負い、それでお陀仏になるならそれでお仕舞いだがそうならず回復し、また飛び出して周りを巻き込み・・・のエンドレス。
アーチャーはかつての自分である士郎を倒し、「正義の味方」を目指そうとする歩みを止めるのを目的としているが、「そりゃ気持ち分かるわ・・・」となる。
UBWに至っては、遠坂凛もよくまぁ、こんな男に付き合ってられるな・・・と無印を見てさらにその思いを強くした。
何よりもいらつくのは、士郎自身の中で「では正義とは何か?」「正義はほんとうに正しいのか?」の自問自答が無く、ただ「正義の味方」を絶対的な善として、まるで機械人形のごとく延々と「自分は正義の味方になる、それは間違っていない」と自分に言い聞かせている。今時のアニメのキャラクターで、善悪の片方だけに立脚した「正義の味方」なんてありえねーだろ?何年前のキャラクター設定だ?正義を振りかざしたがゆえに人を傷つけ、あやめ、善悪の境に苦悩するのが昨今のキャラクターの「リアル」じゃねえのか?
作中、何度もセイバーや遠坂凛に「自分の安全を優先しなさい」とたしなめられ、叱られているが、本当に自分の命を顧みずに圧倒的に不利な状況で敵の前に飛び出す。
有り体に言えば変な意味で「人間味がない」、それが衛宮士郎と感じる。
衛宮士郎は、「正義の味方になりたい」「目の前で苦しんでいる人がいるのが嫌だ、傷つく人がいるのが嫌だ」という感情に任せてその時その時の場当たり的な行動を繰り返す。
たまたま主人公設定で死なないでいるだけで、普通なら何度も死んでる。
彼は、「自分が今ここで死ぬと、将来救えたかもしれない人間がどうなるか?」とか、「自分が他人を助けるために死ぬこと・傷つくことで、悲しみ、苦しむ人間が生まれる」ということに気がついていない。気づいていても無視している。
ようするにあまりにも「何も考えていない」ように見えるのだ。だから遠坂凛やセイバーに理屈で詰め寄られると「そりゃそうだけど」「でも」「いやとは言っても」と言い返すもののその先が出てこない。あるいは単に言葉に窮して何も言い返せなくなる。その挙句、感情で動いてるのを「自分が信じた道だから」と周りとの調整なしに飛び出していく。
ふざけんな。
なんで現実世界で散々見せつけられたNGパターンの集大成を創作世界でまで見せつけられにゃアカンのだ。
やめて、それ私にとっての黒歴史なの。
こりゃ、アーチャーが過去の黒歴史消したくなるの分かるわ・・・。
あと士郎は自分が人を救えると信じてるところもいただけない。お子様ならまだしも、高校生になったキャラクター造形としてこれはいただけない。
これが、「以前は人を救えると信じていたが、限界を知り・・・」という闇設定があれば溜飲も下がるのだが、そうでもない。
もちろん限界があるのは知っているが、それでも救い続けようとして、その挙句がアーチャー、ということ。
アーチャーもさぁ、UBWのラストで納得してんじゃねぇよ!過去の自分を認めたのは良いけど、守護者としてこの先も延々と神の手下をやってくんだから、それも含めて腹落ちさせないとアカンやろ!
なに「昔の俺はああだった・・・」と懐かしいんで終わりにしてんだよ!これからも無限の時間を守護者として神の手下となって殺戮を繰り返していくんだから、もっと考えること・士郎に語ることがあるやろ!
そう、全体的に士郎のキャラクター造形が「あまりにも造り物すぎて引いた」というのが正直な所。
おそらくFate/stay night の各ルートそれぞれで士郎のこのキャラクター造形が作品のテーマと絡んでくるのだろうけど、またそのためにこそ、このキャラクター造形となったのだろうが・・・
なんども言うが、「現実世界で散々見せつけられたNGパターンの集大成」とも言えるべき勝手気ままの独善+自覚なしで暴走するキャラクターなので、正直見てると苛立たしいし辛い。
まどマギのまどかはさんざん悩んで迷って、その果てに「全ての魔法少女の救済」に至ったが、ちゃんと悩んでるし迷ってる。それで自分がどうなるか、それがどう魔法少女の人生に影響するのか、自分の責任を分かり、ほむらや家族のことを考慮して、その果てにそれを望んだ。だから、「色々諸事情がある」のを踏まえた上でのそれでも譲れない信念、といういわゆる「バランス」を考慮した落とし所、納得感を出せた。
一方の士郎は、その辺の自問自答・本質的な問いが圧倒的に欠落している。衛宮切嗣に救われた。大災害で自分だけ助かってしまった。だから今度は自分が他人を助けないとダメだ。切嗣は正義の味方になろうとしていた、自分が後を継ぐ。切嗣が自分を助けた時幸せそうだった、だから幸せは「人を助ける正義の味方になること」で得られる。
全てが「自分」にしか向いていない。結局のところ自分の不安を、人生を認めるのに不安があり自分だけ助かったという罪悪感がある。贖罪無しで人生を歩むことを赦せていない。士郎は、自分で自分の人生を認めていない、赦せていない。
ふざけるな、そんな人間に他人を救えるか。
人間は、衛宮士郎の自己満足を満たすために苦労して傷ついてるんじゃないんだ。
衛宮士郎の「正義の味方」ごっこは、所詮はそうした自分の人生を認められないがゆえのオナニーでしかない。
だから言峰綺礼にも、「喜べ少年」「夢が叶うぞ」と、けしかけられる。
長々と語ってしまったが、Fate作品そのものは良いとしても、衛宮士郎というキャラクター造形が今の自分では見ているのがしんどかった、という話でした。
コメント