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日記/2018/05/07/最近の仏教思索(2)

日記/2018/05/07/最近の仏教思索(2)

日記 / 2018 / 05 / 07 / 最近の仏教思索(2)
id: 1436 所有者: msakamoto-sf    作成日: 2018-05-09 01:10:40
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日記/2018/03/24/最近の仏教思索 の続編。

3月末~4月始めの出張で、出張先のホテルの風呂でボーッとしていたとき、次のことが分かった。

  • なぜ苦しむのか、不安が消えないのか。それは生きるために必要だと思っているから。
  • 全く不安を感じないと、食べるものが無くなっても適切な行動を取れず、命の危険が迫っていても適切な行動が取れず、その個体は死亡してしまう。
  • そのため、生きるためにあえて不安を造りだす。それによって苦しみを生み、そこから逃れるための行動、つまり生きるための行動を起こす。
  • 肉体的・物理的なものだけでなく、人間の場合は社会的な点から、他人からどう思われるか、他人からの影響を常に受け、それに対して様々な反応を起こす。
  • 他人からの評判を気にする、他人に嫉妬する、怒る、増長する、などなど、精神的な快・不快が沸き起こるのは、社会的に生きていくために、あえて不安・苦しみを作り出そうとしている。

これを突き詰めると、生きるのを止めれば、苦しみが消えることになってしまう。
しかしお釈迦様はそうならなかった。
生きたまま、この苦しみから離れるためにさらなる瞑想を重ね、生きたままこれらの苦しみから離れた。
恐らく、本当にその境地に到達するには、実際に南伝仏教あるいはチベット仏教の僧侶となり、全てを捨てて文字通り「出家」するのが最短距離となろう。
しかし自分自身はそこまでする気持ちは無い。

もう一つ、長年の悩みとして、どうしても「悪い思い出」ばかりが勝手に頭の中で再生されてしまい、そのたびに、その時のバツの悪さであったり恥ずかしさであったり、「なんでこんなことをしたのか」「あんなことしなければ良かった」という後悔の念が、ほんの数秒の間に強烈に湧き上がる。
ものすごいスパイクとして短時間、そうした思い出したくもない感情・感傷が心に湧き上がる。
それはふとしたはずみで、ちょっとした連想ゲームで自動再生される。

  • 例えば小学生の頃にやってしまった身勝手な振る舞いで他人に迷惑をかけた思い出であり、
  • 例えば中学生の頃にやってしまった、知らず知らずのうちに人を傷つけた言動で、人から胸ぐらを掴まれて初めてそれを思い知らされた思い出であり、
  • 例えば高校生の頃にやってしまった、周囲から距離を取っていたことによる他愛ない一言であったり、
  • 例えば大学生の頃にやってしまった、自分では何でも研究できると増長したことによる恥ずかしい行いであったり、
  • 例えば社会人になってからやってしまった、数々の仕事上のミスであったり、ミスを隠してしまったり、自分の過失ではなく他人の過失をまず疑ってしまった言動であったり。

自分の性格として、実は攻撃的なところがあり、自分が間違っているとは認めず、自分のミスを隠し、そのくせ臆病である性質がある。
つまるところその性質が招いた悪い言葉・悪い行いに基づく、後悔するような結果(=悪業)を、10年経っても20年経っても、ふとしたはずみで思い出し、「自分はかくも酷い人間であった」と極短時間の内に強烈な後悔に襲われる。

これをマインドフルネスにより、連想ゲームが始まる瞬間を捉えることができないか試そうとしたが、中々上手くいかない。
本当にちょっとしたはずみで、一気にその「悪い思い出」が再生されてしまい、後悔の念に耐えきれず呻き声を上げてしまうときも多い。

なぜ、こんな心の動きが起こるのか。
理由がようやく分かった。

自分の性格として悪い点があり、その自制が必要であるのが分かり始めたのが小学校高学年~中学であった。(他人に機微に無頓着、自分のミスを隠す、臆病、e.t.c...)
必要性の理解には、他人への影響とそれによる悪い結果が伴った。
つまり「自分の性格は、これほど悪い影響を与え、悪い結果をもたらすのだから、特に自制が必要である」と認識するための、極端な戒めとして、自分が仕出かしてしまったことを強烈に思い出すようになった。
自分が行った「良いこと」「良い結果に終わったこと」「行わなかったことが良い結果につながったこと」は一切振り返らずに、
自分が行った「悪いこと」「悪い結果に終わったこと」「行わなかったことが悪い結果につながったこと」だけをことさら、重要視して、それを戒めとした。

中学生前後、思春期の只中で、生き残るためには、そうする他無かったのかもしれない。
また社会に出てからも、仕事でミスをしないため・同僚に迷惑を掛けないために、そうしようとしたのかもしれない。

だが実際の所、本当にこうした「過去の悪夢を反芻することによる自戒」は効果があったのだろうか?
中学生の頃まではあったと思う。
高校生の頃も少しあったかもしれない。
大学以降は、多分ほとんど効果は無かっただろう。

とはいえ、やはり思い出したくもない後悔の念に苛まされるような悪夢は、高校時代までが多い。
自分が起こした結果だけでなく、他人が、他人に叱られてる現場と当時の音声(を自分が聞いていた)であったり、特別悪いことではないのに決まりの悪い思いをしたり、バツの悪い思いをした思い出も突如として頭の中で再生される。
そのたびに、当時の居心地の悪さであったり決まりの悪さ、バツの悪さが心の中で沸き起こり、呻き声を上げてしまう。

自戒だけでなく、こうした「不快」な記憶全般を、ことさら重視しそれらを過去の思い出として頻繁に思い出す。
それが、自分にとって生き残るために必要だと、ずいぶん長いこと「勘違い」してきたのかもしれない。

確かに一時期は、必要だったのかもしれない。中学生前後は特に、それくらいのショック療法が無ければ、うまく自制に至れなかっただろう。
だがこうした過去の悪夢・不快な思い出を反芻したところで、自制の先には進めない。
実際、特に会社に入ってから良いことをした・良い仕事をできた・同僚とよくやれた、ことを思い出すと、こうした過去の悪夢・不快な思い出の反芻に学ぶ自制のおかげとは言えない。
極端な過去の忌避・それに伴う自制ではなく、むしろ性格の悪い点の裏返しとしての、良さ、そのものが良い影響を与えたことが原因であろう。
攻撃性があるところは、他人を目の前で罵倒するような攻撃ではなく、どう改善するか、どう相手を喜ばせられるかという思念への攻撃性へ。
ミスを隠す点については早期の開示のほうが結果として良い結果につながるのを経験的に学習。
他人の顔色を伺う臆病さについては、相手の面目を立てるための細やかな気配りへ。

良い結果に終わったこともあれば悪い結果に終わったこともある。
ただ、もう、自戒として延々と、10年も20年も昔の、もう関係者も忘れ去ってるような思い出を何度も何度も繰り返し思い出しては、当時のバツの悪さ・後悔・不安を思い出しても、それは「生き残る」ための不安や苦しみとしては、役に立たない。

自戒のための新しいルールは、既に学んでいる。
それは十善戒であり、八正道であり、 五戒であり、空観である。
実際、仏教に傾倒し始めた2010年以降は、前述のような「悪い思い出」がほとんど無い。

過去の悪い思い出を思い出すのは、苦しみを生み出す「矢」であり、それは確かに一時は必要な痛みだったのかもしれない。
その「矢」を自分に挿したのは、自分自身であり、その苦しみは一時は必要だったのかもしれない。
だが、もう、その苦しみは不要と観じた。
なぜならそれは過去の記憶が生みだす幻であり、また本当に必要な戒め・ルールでもない。
為してきた悪いことばかりを思い出すのは、自分を認識するにはあまりにもアンフェアであり、偏り過ぎている。
「不快」にのみフォーカスしすぎていて、「不快」から逃れるだけでは、あまりにも偏り過ぎている。
為してきた良いことにも平等に目を向けるべきであるし、
善行の範囲で観じた「快」について真剣にフォーカスすべきであろう。

自分の性格の悪い点・至らない点。それがもたらした過去の結果を延々と振り返っては苛まされる、自虐の苦しみは、もう何も役に立たない。
本当に必要なのは、良い点・悪い点、いい感じに仕上がった点・まだまだな点、それらをひっくるめて、その特性を如何に社会で良い方向に発揮させるか。
良い点・いい感じに仕上がった点をどうすれば最大限、レバレッジを効かせて社会で役立たせることができるか。
悪い点・まだまだな点をどうすればマイルドに薄めるか、あるいは悪い影響を最小限に抑えられるか。
自分の性格を、そうした長短のある一つの道具、ツールとしてドライに見つめ、どう人生を歩むツールとして使いこなしていくか。

仏教は智慧だけでなく、慈悲も説く。
「自分はこれほど愚かで悪い人間だ」とひたすら自己認識を下げるだけのものではない。
自分のこれまでの善行、行わなかったことにより良い結果をもたらしたこと(賭博・姦通・窃盗など)を認識し、それを称えることもできる。

なんとなれば、自分がこれまで高野山・叡山・永平寺・身延山・飛鳥・奈良と回ってきて、各々の寺社仏閣で家族や世の中の平穏と安寧をお祈りしてきたように、
自分自身も、既に釈迦から始まる数多の仏僧達にその平穏と安寧を祈られている。
それが確信できた。
仏教を学び始めて、ようやく、「自分は誰か他の人から、少なくとも釈迦から始まる仏教の歴史全てから、その平穏と安寧を祈られている」と確信ができた。

よって、過去の悪い思い出を思い出す「矢」はもはや要らない。
自分は、・・・多分・・・、この「矢」を抜き取れた、そう思う。確信できた、と言ったら過言かもしれないが、なんだろう、すごく心が軽くなった気分はある。
「もう終わったのだ」「この苦しみは、もはや不要なのだ。」
そういう軽さを感じる。

在家である以上、苦楽を完全に脱することはできない。
だが、「苦」だけにあまりにもフォーカスしすぎていた。
「苦」を見つめ続け、自分がどれほど愚かなのか心に刻みつければ、まっとうな自分でいられる・苦しみを抜け出せる、そう思っていたのかもしれない。
しかし、苦しいものは苦しく、自分でいくら「矢」を自分にさして傷口をグリグリ抉っても、痛いだけだった。役に立ったのは人生上の短い数年。
もうそのような「矢」は要らない。
自分にとって「楽」は何か?
自分の人間として駄目な部分・イケてる部分含めて、良い方向に活かすにはどういう立ち位置が必要で、どういう振る舞いが良いのか?
いや、「良い」というのも他者からの評判を気にしていて仏教的にはイケてない。

仏教としての十善戒・五戒を保ちつつ、どう苦楽のバランスを取り、人生を楽しむか。
自分にとって「楽しい」時間とはなにか。

もう分かってきている。
日記/2010/03/07/「銀の弾丸」が無くても狼男を倒せる世界へ でも書いたが、自分の持つ攻撃性・ミスを隠したくなったり腰が引けてる臆病さ、それらをうまく活かしてプラス方向に転じさせることができる領域がなんとなく掴めるようになってきている。
少なくとも会社と職場、今の職務については非常にマッチしている。
あとは、結婚であったりとかプライベートな人生についてだ。

もうちょっと、「楽」に真剣になってみようと思う。
贅沢をしたり酒池肉林に溺れるとかそういう楽しさではなく、社会に対して役に立ちつつ「三昧」状態に没入できるような、そうした方向性で。


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更新者: msakamoto-sf
更新日: 2018-05-09 01:10:54
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