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トルコ旅行

初版作成:2002/10/14

前書き
 山口君と男二人連れ、二週間弱のトルコ旅行をしてきました。
 ・・・元々は中国(それも北京)だったんですよ。私の希望で。ところが山口
君が「北京は行き飽きた」というわけで、何でかトルコになってしまったのです。
しかもツアー旅行は嫌らしく、結局いわゆる「バックパッカー」旅行になりました。

 トルコは結構新しい国で、イスラム教が主体とはいえ政教分離が徹底されていま
す。キリスト教徒やユダヤ教とも若干ですが存在し、共存できています。
 比較的宗教に関しては緩やかとも言える国で外国人旅行者も大量に見かけられます。
観光客慣れした国で、公用語はトルコ語ですが殆どの人たちが片言ですが英語も
話せます。そのためよっぽど英語に疎くない限り何とかコミニュケーションが可能です。
また親日国家で、観光客向けの街や大都市ではしょっちゅう日本語で挨拶され、
びっくりしました。
 とにかくそんなこんなで日本人にとってもかなり旅行しやすい国です。治安に
関しては外務省から注意が喚起されていますが、一般的な海外旅行と同様に気を
付けていればそんなに危ない目には遭わないと思われます。

 というわけで、二週間弱のトルコ旅行をしてきました。ほんじゃ始まり始まり〜。


2002/09/16
 朝、山口君の下宿に立ち寄って持ち物チェックした後中央線で東京駅、総武線
で成田空港じゃなかった、新東京国際空港へ。第二ターミナルとかいうところで
(要するに総武線成田空港のどん詰まり)おりると早速パスポートチェック。
 11時くらいには搭乗ゲートについて、持ち物検査。さすがにハイジャックテロ
から一年が過ぎたせいもあるのか、思ったよりはあっさりとしたチェックでした。
んで12時に出発。
 今回はトルコ航空がどこも満席で。しょうがないのでシンガポール経由イスタ
ンブール行きのシンガポール航空を選択することに相成りました。
 機上、なんだか尿が近くなりました。予想外。思ったよりも喉が渇かない。席が
翼付け根の部分だったため、視界に入ってくるのは翼の表面ばっかりであまり下
界が見えずがっかり。機内食はおいしかったけど保存のためか、結構塩気が利い
ていた。またエコノミークラスの座席は狭い。んで、現地18時半ごろシンガポー
ルに到着。この後23:30の乗り継ぎまで空港内で待機することに。
 さすがにお腹が空いたということで空港内のハンバーガーで軽く食べることに
しましたが思わぬ事実が発覚。シンガポールではUSドルではなく、シンガポー
ルドルが標準だった・・・。
もちろんUSドルも使えますが、店員さんはあまり
いい顔してくれません。私たちはトルコリラへの両替もありますのでUSドルに換
金していたため、シンガポールドルが出せない。店員さんも焦っていたようでし
た。肝心のハンバーガーの味に関しては。まあハンバーガーは良かったんですけ
ど、ポテトがなんだか油の味がいやに残ってしまっていて、いわゆる「味が重た
い」。日本のマクドナルドやその他ハンバーガー店とはずいぶん違った感じです。
あとゴミが分別されていなかった。全部まとめてゴミ箱へポイ、ってな
感じです。これには唖然としました。それとどうでも良いことなのかもしれませ
んが、これはトルコに行ってからも感じたことなんです。
 色遣いが全然違う。ハンバーガー店、雑貨屋、空港内。どれをとっても
日本国内のありとあらゆる色遣いと違っていました。派手なんです。どれをとっ
ても。これはどこかの新聞に載っていたことですが、日本の着物をヨーロッパの
町中で着こなそうとした人がいたのですがやっぱり「色が合わない」といった印
象をうけたそうです。これがお国柄というやつの一部なんでしょうかね。
 まあとにかく、私たちの他にも随分いた、トルコ行きの日本のツアー客達とと
もに無事乗り継ぎ(Transit)をすることもでき、一路イスタンブールへ・・・と
思いきや。深夜、なんだか中東のDubaiとかいうところに突如着陸。
 いえ、突然ではなかったかもしれません。機内放送が全部英語なんで、聞き取
れなかっただけかもしれません。なんだか周りの人たちが皆さん降り始めるので、
「なんだこりゃ」と続いてみたらここで給油や何かのため一時間ほどとどまるみ
たいです。実際出口のところで「Dubai」「Istanbul」と二種類のゲートが待って
いて、イスタンブール行きの人は自分の搭乗券と乗り継ぎ時に掲示するカードを
交換します。で、しばらく行くと掲示パネルに乗り継ぎのゲートナンバーが表示
されていて、ボディチェックを受けます。んで、乗り継ぎゲートの受付で先ほど
渡されたカードを掲示すると、カードに記載された番号をみてさっき渡した搭乗
券が返却されます。あとは待っているとBoardingの放送が入り、ファーストクラ
スや奥の方の席の人から順番に搭乗が始まります。
 ということで、何も知らされてなかった(というか聞き取れなかった)私たち
はおっかなびっくり、どうにか再び飛行機に搭乗し、今度こそイスタンブールを
目指すことになったのです。
 今回利用した飛行機には座席に小さな液晶モニタ、肘掛け部分にそのコントロ
ーラが収まっていまして、これでもって映画を見たりTVゲームをしたり、いまど
こを飛んでいるのか分かるようになっています。それでDubaiを発った後うつらう
つらしながら飛行機のルートを見ていたのですが。見事にイラン・イラク上空を
避けていました。
ううん。本当にやばいのネ。

2002/09/17
 というわけで、現地時間朝の9時。イスタンブールのアタテュルク国際空港に
無事到着できました。さてとりあえず今日はパムッカレ行きの(つまりデニズリ
行きの)バスを確保した後、イスタンブール市内の城壁を中心に観光しよう、と
いう予定です。そんなわけでバス会社に行かなくてはなりません。
 トルコではいわゆる長距離バス(オトバス)が非常に発達していて、オトガル
といわれるターミナルみたいなものがちょっと大きめの街なら必ず存在し、各都
市間を結ぶバスが発着します。オトガルには大概バス会社の事務所も複数軒を連
ねており、とどのつまりオトガルに行けばバスの予約と乗り降りができるのです。
 さて、イスタンブールのオトガルなんですが・・・コレがちょっと遠いところ
にありまして。イスタンブール自体が非常に大きな都市になっていて、道路も幹
線道路がぐるりと周りを回っているのです。というわけでイスタンブールのオト
ガルは町中にあるのではなく、幹線道路のロータリーの近くに存在します。で、
さらにアタテュルク国際空港自体がイスタンブールのハズレにあるのです。
 というわけで、アタテュルク国際空港からオトガルへ向かうには「メトロ」と
呼ばれる地下鉄もどきにのり、オトガル駅で降りるわけです。で、肝心の空港に
メトロの駅があるかというと有りませんでした。しょうがないのでタクシーで直
近の「イェニボスナ」駅まで運んでもらったのですが。ここでちょっとしたミス。
 いろんなところで語られていますが、「トルコの紙幣はとにかくゼロが多い。」
ドルを若干と、手持ちの日本円をトルコリラに空港で両替したのですが、予
想していたこととは言え実際にレシートに書かれたゼロの数と、手にしたウン万
トルコリラの紙幣をつきあわせることは・・・すっげー大変でした。
 というわけで、何をミスったかというと。料金。タクシーの運ちゃんは「5ミ
リオン」と行って来たわけです。ミリオン(人によってはミリヨンとも)は英語
そのまんまで百万。ゼロ6つ。ところが私は何を勘違いしたのか、500,000と
かかれた紙幣を何度も運ちゃんに突きつけていた。
運ちゃんはいい加減頭に
来たらしく、私の財布の中を調べて5,000,000紙幣を自分で抜き取って走り去って
いきました。ひどい客も居たもんだネ。
 「メトロ」の料金は固定。どこまで乗っても、一回ぽっきり650,000トル
コリラ。ところが不慣れな私はよくわかんなくなり、とにかく1,000,000とかかれた
紙幣を出して「オトガル、オトガル。」窓口の人はさっと切符と釣り銭を渡しま
す。が。「つ、釣り銭があってるのか計算できねえ・・・。」コレに関し
てはあとで長々と解説しますが、後ろにも人がいるのでゆっくりできません。紙
幣は財布に。硬貨はミネラルウォーターを入れたポケットに突っ込むことにして
とりあえず改札に向かいます。で、窓口でもらったテレホンカード大のチケット
を差し込み・・・・・・出てこない。中に潜ったきりなんですけど。
 いえ。これで良いみたいです。駅によって例外もあったんですが、一回こっき
りの切符は回収されたまんま戻ってこないんです。安心して鉄棒をからりと回転
させて中に入りましょう。要するに切符というよりは回数券という感じです。
 さて、メトロに乗ってオトガルにつきました。降りるときは単に出口側の鉄棒
をからりと回して出る。そんだけです。
 オトガルのメトロは、ショッピングセンターと一体化しています。降りてすぐ
横に食い物屋が有り、奥へ行くと洋服だの電気屋などが目に入ります。私たちは
とりあえず外に出て、パムッカレ・デニズリ行きのバス会社を探しました。する
とまもなく「地球の歩き方」にも乗っていた「DENIZLI SEYAHAT」が見つかり予約。
一応国際学生証を見せたらちょびっと割引してくれました。
 無事予約も終わり一安心。で、とりあえずトルコで有名な「チャイ」を飲んで
一服しようとショッピングセンター内の適当な店に入り「チャイ」を注文。ちょ
っと濃いめの紅茶でした。でえ、問題は料金。店員が電卓をはじいて表示してく
れた数値は3,500,000TL。ここでまだなれきってない私たちはまたもやもたつきま
した。これ以降しばらく私の脳内はトルコリラの計算に占有されます。

 というわけでトルコリラの計算で一休みしましょう。ここで私のトルコリラの
計算方法を公開します。トルコリラの紙幣をよく見てみると、最初のゼロ三つだ
け微妙に色や字体、装飾が変えてあります。で。トルコでは1000を「Bin」と表記
します。つまり先ほどのタクシーでは5,000Bin。チャイは二人で3,500Bin。メト
ロは650Binとなります。またお店のメニューに書かれている数字も、大概最初の
ゼロ三つを省略しBinを暗黙の基本単位として表記されています。
 このBinという単位に当初全く気がつかなかったせいで私は大いに混乱しました。
というのもメトロの釣り銭で渡された硬貨には「100Bin」とか「50Bin」とあった
のです。「あれ?100TL?少なすぎる・・・どうなってんだ?Binってなに?」で、
チャイを飲み終わった後、山口君を無理矢理引き留めてすこし休みをいただいて
必死に頭の中で整理していたわけです。でようやく「あ、そうか。Binってゼロ三
つか。」と気づき。そこでようやくトルコリラに完全対応しました。
 つまり、最初のゼロ三つは暗黙の基本単位として無視します。また、非常にお
おざっぱですが1,000Binで1USドルと計算できます。となると1,000Binは100円に
なります。タクシーは5百円、あるいは5ドル。チャイは350円あるいは3.
5ドル。メトロは65円あるいは65セント。ミネラルウォーターは300Binでしたの
で30円。後々判明しますがオトガルで飲んだチャイ二人分3,500Binというのはか
なりぼったくりに近い金額で実際は一人分1,000Bin以下です。缶ジュースは日本
とあまり変わらず1,000〜1,200Bin。つまり100円。予約したデニズリ行きのバス
は22,000Bin近くでしたから2200円。つまりBin表記からゼロ一つとればだいたい
日本円に。Binではなくミリヨン単位にすればだいたいドルに直せます。
 それ以外にBinになれればトルコリラの計算が非常に楽になります。あとでパ
ムッカレツアーで出会うロンドンから来たというおばちゃんもトルコリラの計算
に困っていたようなので、Binの考え方を教えてあげたら大喜びしてくれました。
 というわけで、以降は紙幣を間違えて渡すようなことはなくなりましたが。も
う一つ困ったことがありました。旅行者はだいたい多額のトルコリラを持ち歩き
ます。私たちが旅行中所持した最高額の紙幣は20,000,000TLというのが最高額で
した。でえ。旅行者はよく、最高額の紙幣しか手持ちが無くなる場合に出会うの
ですよ。そこであなた、ミネラルウォーターとか買うときに20,000Bin紙幣とか出
してお金を崩そうとするとだいたい断られます。山口君なんかは、財布の
中身を見せて本当に20,000Bin紙幣しか手持ちがないことを証明してようやく崩せ
ました。レストランでは大概1,000Bin単位なので20,000Bin紙幣を使ってもいや
がられることはないのですが、市内の小売店とかではまず使えないものと思って
もらって結構です。
 小銭が無いというのはトルコではかなり致命的な事態です。というのはトルコ
の公衆便所では250Bin、高いところでは500Binの利用料金を取られます。そんな
時に10,000単位の紙幣しかないとトイレにも行けません。
 というわけでみなさん、トルコに行くときは小銭を大切にしましょう。レスト
ランとかで10,000Bin近くを支払うときには間違っても1,000Bin10枚だしてはい
けません。迷わず20,000Bin紙幣を出して、積極的に小銭を作ってください。
 ちなみに旅行中出会った紙幣は・・・。
20,000,000
10,000,000
5,000,000
1,000,000
500,000
250,000
 旅行中出会った硬貨は・・・。
250Bin
100Bin
50Bin
 最後の注意ですが、トルコの硬貨は新旧まぜこぜです。たとえば100Bin硬貨は
黄色くなった古くて大きめのと、ぴかぴか銀色の小さめのが二種類有ります。

・・・話を戻します。えーと・・・。オトガルで一休み、でした。
 その後の協議で、その日はメトロのトプカピ駅で降り、城壁後を中心にモスク
を廻ることになります。
 あとちょっとした断り書きですが、以下、地名に関しては全て日本語のカタ
カナ表記に統一します。またそれ以外のトルコ語に関してもなるべくカナ表記を
心がけます。
理由は単純で、トルコのアルファベットにはウムラウト(文字
の上に点が二つ横に並んだもの)を使ったものがありIMEで出すのが面倒だからで
す。他にも「i」の大文字が存在するのですよ。cやsも下部ににょろっとした
のがくっつくのが存在するし。

 カタカナ表記に関しては昭文社の「個人旅行35トルコ」を参考にします。

 さて、トプカピ駅で降りた私たちは「テオドシウス2世の城壁」跡に沿って南
下していきます。いわゆる城壁跡です。が・・・「跡」じゃないよ。
 何か布団とか干してあったり、城壁沿いの道路に並んでいる街灯から勝手に電
線伸ばして城壁「内」に引き込んでいるし。あのパラボラアンテナは何。
・・・浮浪児や浮浪者達の住処となっているようで。私たちも浮浪児達にまとわ
りつかれ辟易しました。財布をすられるとかはなく、徹底的に無視していたら向
こうもあきらめました。
 え?城壁跡それ自体の解説は?・・・めんどくさいので今回は各ポイントの解
説は省きます。旅行ガイドとかを眺めてください。今回は純粋に私個人の感想の
みを記すにとどめます。なんつったって二週間弱あったんだから。
 あー・・・早速めんどくさくなりました。その後いろいろジャミイ(モスクの
トルコ語で、Camiとかく。)を廻りました。迷いかけて坂道を上って方向を確認
したり、なんだか子供達二人連れに道案内頼んだり。山口君が途中の店でお礼に
缶ジュース買ってあげたり、私は私で途中ピデ買ったりシミット買ったり(どち
らもトルコにおける庶民的なパン)。
 ヴァレンス水道橋では子供達とじゃれあったり。水道橋は塀が建ててあって上
に上れないようになっていましたが。なんか崩れているところが途中にあって、
そこから石づたいに何とか上れるみたい。目の前で上り、降りてきた外国人グル
ープをみた山口君はさっそく挑戦したけどあいにく彼は手の骨を折っての旅行で、
さすがに無理でした。現地のトルコ人が軽々と上って見せ、「手伝ってあげるか
らあんたもどう?」と誘ってきます。山口君は無理なので私にくるのですが・・・。
私は一発勝負は無理です。臆病者と誹られようが、とにかく体を動かす
作業で一発勝負は私は無理なんです。山口君は非常に残念がりましたが、トルコ
人のお誘いを「ムリムリムリムリ」と拒否。すると脇にいたトルコの子供達も「
ムユムユムユムユ」と真似。ちょっと悔しいが、無理なものは無理なんだい。
 あそこで上っていたら、たぶん降りるときに絶対怪我していた。
 その後子供達とじゃれあって水道橋を跡にする。ガイドブックにも載っていた
が本当に人なつっこいな。
 その後一通り観光も終わりアクサライ駅の近くの鶏肉料理店でキョフテとか言
う肉団子もどきを食べました。キョフテというのはドイツ語ですね。トルコはド
イツとの関わりも多いらしく、トルコ語をかじったときに気づいたのですがドイ
ツ語の面影が色濃いです。軽いお願いを表す「ルトゥフェン」もウムラウトがつ
いている点も含めてドイツ語にそっくり。
 その後メトロを使ってオトガルまで戻り、パムッカレじゃなかったデニズリ行
きのバスを待つことになりました。広場のベンチで座りながらシミットやらピデ
をほおばっていると、デンマークから来た中年男性とトルクメニスタンから来た
男性に英語で話しかけられてきて、ちょっとした雑談になりました。デンマーク
の男性の方は同じバスでデニズリに行くみたいです。
 パムッカレは石灰棚で有名ですが、直接パムッカレに到着する長距離バスはあ
りません。近くのデニズリという街に長距離バスは到着します。そこからタクシ
ーだのドルムシェだのバスだのを使ってパムッカレまで行くことになります。
 でえ。バスの到着時刻近くになったので乗り場を探し始めたのですが。またも
やアホミスを犯しました。座席番号を乗り場番号と勘違いしていた。座席
番号は最前列の3番4番なのですが、バス会社の事務所を抜けたところに輝く乗り場
番号は35とか。「あれ?ここじゃないのかな?」と3,4のバス会社を探して、夜中
混み合うバス乗り場を突っ切っていくことになりました。結局3番とかの乗り場に
行ってもなんだか全然違うバスみたいで。さんざん迷ったあげく、ようやく前述
の勘違いに気づいて元のバス会社まで急いで戻りました。
 長距離バス(オトバス)の中ではお水が出ました。ただ・・・やっぱり座席じ
ゃ眠れない。結局うつらうつらとしか睡眠がとれないまま東の空が明らむのを見
ていました。

2002/09/18
 というわけでデニズリに到着。んで、なんだか日本語を話せるおじさんがいき
なりやってきて「パムッカレ行く?付いてきなさいな。」みたいな感じでお誘い
が。ですがカッパドキア行きのバスの予約が先決と山口君が言うと、「バスチケ
ット?僕の働いているところ、バス会社だからそこで予約できる。」みたいな感
じ。んで言ってみるとカッパドキアのギョレメ行きのバスを運行している会社に
つれてってもらって、めんどくさいのでそこで予約。
 デニズリのオトガルですっげーむかついたこと。靴磨きの兄ちゃんがしつこく
寄ってくる。何度も追い返そうとするが退かず、終いには嫌だといっているのに
勝手に人の靴を磨き出す。1,000,000と言われたが手持ちが5,000,000。お
釣りをもらおうと思ったら、5,000,000もらったきりでどっか行きやがった。
何よりもの問題は周囲の靴磨きのガキどもにまで「この日本人は金回りが良い」
と思われてしつこく寄られかねないこと。だって、パムッカレ行った後またここ
に戻ってこなくちゃいけないんだもの(予感は的中しました)。
 とにかく、日本人の奥さんもいると話すそのトルコ人男性にパムッカレ行きの
バスを教えてもらい、一緒に乗る。んで、パムッカレで降りると思いきや何だか
高そうなホテルで男に「ここ、ここ。」といった感じでおろされる。
 なんか男の知り合いが働いているホテルらしく、只でホテルの朝食を頂いてし
まいました。んで、朝食を頂いていると何だか眼鏡をかけたおっさんが出てきて
パムッカレのツアーを紹介し始めました。私にとっては疲れなければ、そして無
茶しなければツアーだろうが何だろうがかまわなかったのですが。山口君は自分
のペースでゆっくり廻りたい性分らしくツアーの勧めにも半信半疑。しかし日本
語の話せるガイドさんも付くらしく、「んじゃあ、とりあえずこれでツアーがど
んなものか様子を見てみるか。」といった感じでツアーに参加決定。というわけ
で現地ツアーに参加することになりました。運転手付きのミニバスでパムッカレ
に連れて行ってもらいます。途中別のホテルに停車し、ロンドンから来たという
肌の色の濃い、太っちょで陽気なおばちゃんを乗っけて。んで、これまた飛び入
り参加という日本人会社員男性の計4人のお客さんになりました。パムッカレま
では車でも結構走る羽目になりました。途中山口君は「自転車が借りられれば自
分で走っていけたのにな・・・。」ふざけんな。
 パムッカレに行く前に、小高い丘にある鉄分を多量に含んだ温泉(というか、
熱水の湧き水)で足をぱしゃぱしゃさせました。ガイドさんが「レッド・スプリ
ング」と連呼していたのですが、当初「スプリング?なんだそりゃ」と言う状態
で、ここでようやく「あ、スプリングって湧き水、温泉のことね。」と納得。そ
の後パムッカレの山中に広がるヒエラポリス、ネクロポリスを英語の説明で見学。
ここの遺跡はとくに立ち入り禁止とかはなく触り放題、覗き放題というやつです。
が。そのせいもあるのか、墓穴の中にペットボトルなどのゴミが・・・。
 遺跡見学が終わった後は、午後泳ぐプールの下見をした後、最初のホテルでお
昼。んで、その後ショッピングセンターに連れて行かれました。まあ要するに女
性客向けのサービス?運転手の男の人も暇そうでした。んで、ロンドンから来た
おばちゃんは何かいろいろ買ってたみたい。んでもってようやく石灰棚に。途中
石灰棚のみの便乗客(女性客5,6人)を乗っけてやっと到着。
 石灰棚の原理は至って単純で。大昔アナトリア高原は海底だったそうです。ん
で、そん時におそらく珊瑚やらなんかで二酸化炭素が固定されて。後、隆起した
あと雨風で浸食されたものです。石灰棚の場合はそこに温泉という付加作用があ
る訳ですが。カッパドキアで有名なキノコ岩の傘の下、白い部分も炭酸カルシウム
が主成分で、結局パムッカレと同じパターンです。
 まあ、自然に神秘、ちゅーやつですな。山口君なんかは我慢できずに棚にたま
った温泉プールにダイブしてきました。
 んで、その後ようやくプール。つっても石灰棚で相当時間を食ったせいか30
分ほどしか居られませんでした。なんだか私はロンドンから来たおばちゃんに気
に入られたらしく、プールの中で足を滑らせないようにおばちゃんをエスコート
する羽目になりましたヨ。何だかサングラスを付けているせいで泳げないみたい
で。とりあえず歩いたりして楽しんでましたね。
 んでパムッカレを後にした我々はツアーともさよならをして、途中カッパドキ
アのツアーを進められつつもとりあえず拒否。バス停まで案内してもらい、デニ
ズリへ。んでえ。デニズリのオトガルでえ。やっぱり来ましたよ。朝の靴磨きと
のやりとりを見ていたらしい子供の靴磨き屋が。ちょうど山口君が買い物に出か
けているタイミングでしたし、とりあえず「ノー・センキュー」を連発して何と
か押し売り靴磨きだけは避け続けました。10分ほどしてようやくあきらめて向
こうに行ってくれました。
 んで、バスも来たのでいよいよカッパドキアへ。

2002/09/19
 バスは一路ギョレメへ・・・って。なんかオトガルとも思えないところに朝の
4時頃おもむろに停車。運転手が「ギョレメ、ギョレメ」と誘います。何か変、
と思いつつもとりあえず下車。んで近くにある、タクシーのいっぱい止まってい
る建物に入ります。それがオトガルでした。が。ギョレメではなく、ネブシェ
ヒルのオトガルでした。
山口君の「歩き方」によるとこういったことはまま、
有るらしく気を付けろ、ということでした。んなこと言われたって、右も左も
分からない旅行者に「ここが果たして本当に目的地か」なんて分かるはずないだろ。

 いえ、まあ良いんですよ。問題は昭文社の「個人旅行・トルコ」と「歩き方」
の両方の地図にありました。いつの間にかオトガルの位置が変わっていた。
そのため我々はオトガルとそのた目印との位置関係の把握が不可能になり、朝の
7時くらいまでネブシェヒルのオトガルの周りをぐるぐる回っていた・・・。結
局オトガルの位置がおかしい、ということで他の目印を頼りにネブシャヒルのバ
ス停に到着。ギョレメ行きのバスを待ちます。んでようやくギョレメ到着が朝の
八時くらいだったかな?その足でWall nutホテルに赴いて部屋を確保。んで部屋
でようやく装備品の入れ替えを行って、実家に電話して。シャワー浴びて。んで
ロビーに戻ると記帳、そしてツアーのお誘いが。
 内容的にかなり良く、学生料金も利いていい感じと見極めた私と山口君は早速
申し込み。「アルピノ・ネシェツアー」とかいう会社でした。ここで同じくWall
nutホテルに宿泊していた日本人の社会人女性客二名にご一緒する事になりました。
Wall nut、儲けてんなー。肝心の値段は忘れました。ごめんなしゃい。
 女性ガイドさんで、英語でしたがかなりわかりやすく話してくれました。私と
山口君の英語力は日本の大学生のそれに当たりましたが、女性客二名はかなり堪
能らしかったです。ウチヒサル→デリンクユ地下都市→ウフララ渓谷の散歩兼昼
飯→セリメ→ケルヴァンサライ→アヴァノスといろいろ効率的に廻ることが出来
ました。ツアーも良いもんです。
 ああ、で肝心のキノコ岩の解説でもしますね。これはあまりにも有名ですから
すでに知っている人も多いと思われますが。パムッカレもそうでしたがこの辺は
昔海底で、その関係で石灰質の多い地層が生まれたわけです。コレがキノコ岩の
下部、白い部分の由来。んでもってこの辺は隆起した後火山活動が活発だったわ
けです。そんなわけで吹っ飛んできた火山礫がキノコ岩の真っ黒い傘になるわけ。
あとは長い年月の浸食、風化作用で柔らかな石灰質の部分だけ削られて、今のよ
うなキノコ岩になったわけ。削られすぎて傘がとれちゃった後はローズバレーみ
たいに石灰質部分だけになるということ。ローズバレーみたいに色が付くのは、
白い石灰質に鉄分や硫黄が混じっているからだそうです。ここら辺の火山として
はHasan山が有名で、二万年前に活動を停止した死火山だそうです。
 ウフララ渓谷の散歩途中洞窟に作られた教会も案内してくれました。まあそこ
でいろいろ聞きましたですが、書くのがめんどくさいので省略。
 昼飯時にガイドに尋ねたのですが、トルコの雨期というのは9,10,11月だそうで
す。イスタンブールに着いてからこっち全く雨に降られていなかったので不思議
に思っていろいろ訊いてみたところトルコは意外と雨が多く。アナトリア高原は
実を言うとトルコを支える水源地帯でもあり、チグリス・ユーフラテス川の源流
がある場所でもあるわけでした。
 いろいろ石灰岩の地層を削って作られた住居跡を巡っていると、やけに小さな
穴がかなりの数開いているのを発見しました。ガイドの人は「pegion house」と
連呼していましたが、しばらくして「ああ、鳩、ね。pegionって。」と理解。そ
う、この地では何だか鳩がやたら役に立っていたみたいで住居跡という住居跡に
pegion houseが有ったのでした。
 ケルヴァンサライとゆーのはよーするに「キャラバンのサライ」というわけで、
日本で言う「一里塚」と宿場を組み合わせたみたいなもんです。決まったキロ数
で等間隔に並んでおり、シルクロードを旅する隊商の憩いの場所として機能した
そうです。アヴァノスは陶芸の街で、赤土と白土を使い分けてお皿だの、壺だの
を作っているところで有名です。私たちも陶芸の工房に案内されて実際にろくろ
を回すところを見てきましたです。その後お定まりのショッピングモードに入ら
されましたが、あんまりしつこく売ってこなかったので気が楽でした。結局何も
買わずにアヴァノスを後にして、宿に戻って本日のツアーはおしまい。その後山
口君が「洞窟ペンションに泊まりたい」と。アーリフ・ペンションというところ
で、近くにあったので明日は宿を変えることに。
 夕飯食べてシャワー浴びて、ようやくランドリーサービスを使えてその日は寝
ました。

2002/09/20
 というわけで、翌朝速攻でアーリフ・ペンションに赴いてその日の宿を確保。
んでもってWall nutに戻って朝飯を食べて、ランドリーサービスを頼んで、ツア
ー探しに。とは言っても・・・カッパドキア西側は昨日のツアーで殆ど巡り終わ
ったと言って良い状態です。というわけで、日本語ガイドの話せるツアーを観光
インフォメーションで尋ねると、とあるツアー会社を紹介してくれました。
 ところが日本語ガイドの付いたツアーはすでに出発してしまったと言うことで
す。つまりですね、アーリフ・ペンションの予約したり、Wall nutホテルを出た
り、朝飯食べたりしてるうちに10時を廻ってしまっていたのです。んで、殆どの
ツアーは9時とか遅くても10時までに出発してしまうらしいです。困った・・・。
というわけで、とにかくそこの会社の人に廻りたい場所を地図に示していきまし
た。すると「こんな時間だし、タクシーツアーしかないねえ。」ということ。
 要するにグループではなく、個人的にガイド兼運転手を雇って、好きなところ
に連れてってもらうしかないと言うこと。で、「ジャパニーズ・ガイド・オーケ
ー?」と訊いたら電話で何か話し始めて「オーケー。」んで、「ハウマッチ?」
「120ドル。」
 は?120ドル?昨日のツアーは確か一人20ドルぐらいだったんだけど・・・。
「スチューデント・プライス・オーケー?」と国際学生証を見せると、またしば
らく電話で話し合っているらしく「100ドル。」ううん・・・。
 さすがに高すぎるらしく、山口君が「英語のガイドだとどれくらいになります
か。」と尋ねたら「二人併せて50ドル。」一人分25ドル。しばらく考え有った結
果、「まあ、コレしかないか。」との結論に達し。半ば不本意ながらも英語ガイ
ド50ドルで個人ツアーを購入したのでした。
 すると若いトルコ青年が登場。「ついてきて。」と会社のミニバスに案内しま
す。車内で、先ほど示した「本日行きたい場所」の巡る順番を確認します。本日
はパシャバー→ローズ・バレー→ゼルヴェ野外博物館→ギョレメ→オルタヒサル
・・・だったような。いえ、ギョレメ周辺を巡ったもので、今となってはどの順
番に巡ったのか覚えていないんですよ。ただローズバレー→ゼルヴェ野外博物館
→ギョレメ野外博物館の順番は確実なんですが。
 まあそれはそれとして、おもしろかったのはガイドの仕方。パシャバーとかで
はさっと一般的な解説を(もちろん英語で)ぺらぺらしゃべった後、「んじゃ、
後は適当に見てって。僕は車の方で待ってるから。時間?いくらでも見てて良い
よ。」・・・て、てきとー!!山口君曰く「放置プレイかよ。」個人レベルのツ
アーって、こんなのもあったんだなあと感心。
 まあ、結果的には山口君にとっては(おそらく)この放任型ツアーは良かった
かもしれません。好き勝手歩き回れるし、いろいろ写真も撮れまくれますので。
昨日はいろいろ回れた代わりに、時間的な制約が存在し、基本的に「ガイドさん
に付いてく」タイプでしたから。自分のペースで見て回りたい山口君にとっては
結構相性が良かったのかも。
 もっともさすがにギョレメ野外博物館やゼルヴェ野外博物館ではガイドさん先
導でついて廻りました。というか、野外博物館広すぎる。特にこのガイド
さん、野外博物館では普通の道を外れて、平気で斜面を上り下りしてくれました。
山口君にとっては楽だったかもしれないけど、体力と運動神経のない私にとって
はひいひい良いながら付いていく羽目になりました。ゼルヴェ野外博物館はあま
り観光客が居なくて方々引っ張り回されましたが、ギョレメ野外博物館は団体旅
行客が何チームも来ててとんでもない混みよう。しかもガイドの解説を二つのチ
ームで混ぜないため、ギョレメの方では各解説ポイント(大概は穴の中)に整理
員がいて、一チームずつ順番に中に入るように指示していました(つまり、「あ
れ?あっちのグループのガイドさんはこっちと言ってること違うぞ?」状態を防
ぐためかも)。こっちは二人、ガイドさん入れて三人。なかなか入れてもらえず、
終いには整理員に頼み込んで他のチームに混ざって鑑賞する羽目に。弱り果てた
のはそのチームのガイドさんの解説が英語じゃなかったこと。もはや完全に理解
不能。あとで私たちのガイドさんに訊いてみたら「うん。この季節は毎日こんな
混みようなんだ。」とのこと。みなさん、ギョレメ野外博物館に行くときは注意
しましょう。
 今回のツアーの特性を最大限に生かせたのは山口君の暴走、と言うか挑戦。ロ
ーズバレーに行ってみると山がありまして、何だか上れるみたいなんですわ。山
口君はとにかく上ってみたくなったらしく、道無き斜面を勝手にずんずん上って
いきます。麓で予めガイドさんから「山のてっぺんまで登ってみると眺めがすご
い良いよ。え?ちゃんと道が付いてるから平気だよ。」と聞いていたのです。私
は途中でリタイア。デジカメ撮影係として下の方で待ってることにしました。結
局頂上まで登れたらしく、きっちり写真を撮ってあげました。
 山と言っても、どちらかというと「登るのが大変そうな結構高めの丘」といっ
た感じで、一般以上の体力のある人なら可能です。私にゃ無理ですが。後でガイ
ドさんに聞いてみると「ああ、そりゃあ良いことしたね。団体客なんかは麓をぐ
るりと廻るだけで、頂上までは登らないんだ。」とのこと。山口君、得したね。
 昼飯に関してもすっげールーズで、「何かリクエスト有る?行きたいところ有
れば連れてってあげるけど。ギョレメに戻ってすませても良いし。」結局山口君
の推薦でギョレメのレストランにしました。
 まあそんなこんなで5時くらいに完全個人ツアーは終了。事務所でチャイ(ト
ルコの紅茶、と言ってもちょっと濃いめの普通の紅茶としか思えない。Liptonの
ティーバック使ってたし)を頂いて後にしました。その後アーリフ・ペンション
に荷物運んだり、Wall nutに洗濯物取りに行ったり。アンカラエクスプレスの
電話予約をしようとしたらいきなりトルコ語で出られて(当たり前か)「インギ
リズジェ・ビリヨルムスヌス?」と片言のトルコ語で英語オペレータに代わって
もらったは良いが「アンカラエクスプレス?ライン・イズ・フル。」よーするに
満席状態と言うこと。結局、翌日カッパドキアを離れてアンカラへ行き、博物館
見た後アンカラエクスプレスに乗ってイスタンブールへという当初の予定は変更
を余儀なくされました。結果として良かったんだけどね。後で分かることですが。
 んで後は夕飯を食べに出て、何でか注文ミスをくらい、テスティ・ケバブとい
う壺で煮込んだケバブを私は頂いて終了。本当は腹が減っていたので他の料理も
注文したはずだが、結局忘れ去られた。んでもってその日は終了。翌日・・・。

2002/09/21
 翌日、鼻風邪を引いていました。私が。
 どうもアーリフ・ペンションの寝床との相性が悪かったらしく朝からくしゃみ
を連発。私の場合昼夜の寒暖差が大きいと鼻風邪を引きやすいのです。春とか秋
の季節の変わり目に良く引いてしまうので慣れっこになってしまったのですが、
問題は「日本から持ってきたティッシュペーパーが足りなくなるのではないか。」
と言うことでした。実は鼻風邪を引くだろうと言うことは予め予想済みのことだ
ったのでティッシュペーパは多めに持ってきては居たのですが実際問題としてギ
ョレメからアンカラへと向かうオトバス(長距離バス)の中で随分使いまくって
しまいかなり手持ちが心細くなってました。結局数日後無くなってしまい、トル
コで購入する羽目になりましたが。
 まあそれはそれでアンカラに着きました。ギョレメ朝7時発、アンカラ到着は
午後2時くらい。朝のギョレメでは気球が舞っていました。山口君は気球ツアー
も試してみたかったみたいですが、安いものでも120ドル。ちっと手が出なかった
みたいです。アンカラに着いた頃には私は鼻炎でぼろぼろ。「休ませてえ〜〜。」
とねだり今日一日はホテルでゆっくりすることにしました。
 ホテルは「イェニ・バハル」。ランドリーサービスはありませんでしたがトイ
レ・シャワー・バス付きで安めです。私は早速横になり、山口君はテレビを付け
っぱなしで日本から持ってきた文庫本を読み始めました。
 ちっと困ったのは。山口君が私の鼻風邪についてちょっと誤解されていました
ことで。私の鼻風邪は、特に寒暖差が大きいせいで引いた場合。これは長年にわ
たる経験による治療法なのですが、なるべく涼しい状態にして鼻水を左右どち
らかに寄せる
と言うものなのです。普通に仰向けに寝てると両方の鼻が詰ま
ってしまうわけです。さらに幾度にも渡る鼻風邪の経験から私の場合、なぜか
暖かくすると逆効果
なんですよ。いや、マジで。といっても寒けりゃ良いっ
てモンではなく、風通しの良い涼しい状態
にしておく事が重要なんです。ち
なみに私の場合なぜか冬の方が鼻の調子が良く、むしろ夏の方が鼻水気味になる
と言うよく分からないバイオリズムを保持しております。
 それの説明不足だったんでしょうが、布団をかぶろうとしない私に「明日も風
邪だったら困るぜ。」と山口君はご機嫌斜め。いや、大丈夫ですって。実際問題
シャワー浴びて横になって、その日の夕方には大分良くなったでしょ?
しい状態で横になっていれば大丈夫なんですってば。まあとにかく山口君も疲れ
ていたのか何か昼寝しちゃったし。結局夕飯はホテル近くの定食屋で訳の分から
ない料理を食って、オレンジジュースがぶ飲み+ルル三錠で寝ました。

2002/09/22
 翌日、鼻風邪も予想道理大分持ち直しホテルをチェックアウト。テレビ料金
23ドルなり。
あーあ。んで、荷物を預かってもらってアンカラ観光へ繰り出
します。ローマ浴場後は何か放置プレイそのまんまでした。アンカラ城塞跡は坂
道を病上がりの身でひいひい言いつつ登らされた後、結局城塞のてっぺんには上
がれないことが分かりリターンしようと思ったら何だか山口君、元来た道じゃな
くて違う道を行ったあげく迷って、ぐるぐる歩いた後ようやくアナトリア文明博
物館。うーん・・・「龍の柩」で出てきたので見てみたかったんだけど、解説と
予習なし状態じゃあんまりおもしろくなかったです。
 んでもってその後アンカラ大学で一休みした後クズライでピザとドン・ドルマ
食べて、国会議事堂行って、アタテュルク廟行ってお参りした後近くのファース
トフードで一休みして文化センターとか言うところへ。何か名前と駐車スペース
の割には荒れ果ててました。何ですか、路面を埋める石の隙間からのぞくぺんぺ
ん草は。一見廃墟としか思えない安っぽさ。山口君曰く「チープだよ。」ここで
民族舞踊の公演か練習をしていたらしい人たちが居なかったら絶対に中へは入ら
なかったでしょう。何か藤子・F・不二雄の退廃系未来SFや「ヨコハマ買い出し
紀行」に出てきそうな、「人類が居なくなった後に残された、荒らされることな
く雑草に埋もれていく近代建築物」を地で行ってました。唯一評価できるのは、
中の便器が西洋便器だったところですか。なんか公演でも有ればにぎやかになっ
ていたんでしょうけど、タイミングが悪すぎました。
 そんなこんなでホテルに戻って荷物を受け取り、アンカラ駅へ。何か私たち以
外にも個人で手配した添乗員付きツアーやその他日本人団体客が2,3あって日
本人がたくさん居ました。22:30出発のアンカラエクスプレスに乗り込んで、遅め
の夕食となります。結構有名な寝台特急で翌朝8時にイスタンブールのハイダル
パシャ駅に到着します。「走る一流ホテル」と言われているせいもあって団体客
にも利用されているみたいでした。実際問題ベッドは大変相性が良かったです。
さすがにシャワーは利用できそうにありませんでした。食事の方は食堂車を利用
したことが今回が初めてなので評価できません。そりゃあ確実に町中の店よりは
劣りますが。特にスープが・・・「味が薄すぎる。」そう。スープに関しては明
らかに「不味い」といえるシロモノでした。他はそれほどでもありませんでした。

2002/09/23
 まあ、と言うわけでハイダルパシャ駅です。何か鼻風邪以来下痢気味。いえ、
鼻風邪引くと下痢するのは良くあることなんですが(くしゃみのしすぎで腹筋が
おかしくなって下痢)、今回は何だか長引いてます。とにかくハイダルパシャ駅
はイスタンブールでも「アジア・サイド」に有りまして。船に乗って渡らないと
「ヨーロッパ・サイド」に行けないわけです。んで連絡船に乗ってどんぶらこと
ヨーロッパ・サイドに渡りました。んで、すぐにオトガルまで行って今度はトロ
イ行きのオトバスのチケットを購入。その日の10時にもう出発するのです。
 トロイは単なる遺跡で、町中にはありません。トロイへは近くのチャナッカレ
という町からバスが出ていまして、オトガルもチャナッカレの方にあります。イ
スタンブールからチャナッカレまではだいたい6時間強。予想道理午後4時半く
らいにチャナッカレに到着。ちなみに私たちが利用した「チャナッカレ・トロイ」
というバス会社ではチャナッカレに行くのにフェリーを使います。チャナッカレ
にはフェリー乗り場がありました。
 とりあえず今日は宿を取っておしまい。すると「イエロー・ローズ」というペ
ンションの青年が声をかけてきました。選ぶのがいい加減面倒になっていた私た
ちはとりあえずそこにしました。んで、宿を確保した後はオトガルの確認とイス
タンブールに戻るためのバスの確認、トロイ行きのバスの確認。夕食。山口君は
早速トルコのご飯に飽きが来始めたみたいで日本から持ってきた携帯用みそ汁を
しきりに飲みたがっているご様子。あとでペンションに戻ってから飲もうや、と
決めるも。何だかペンション、農閑期みたいで私たち以外にはカップルが一組泊
まっているだけのご様子。宿のご主人とその奥さんもやる気なさそう。結局記帳
しなかったし。というわけでお湯をもらおうという計画はあえなく断念。その日
はそれでおしまい。

2002/09/24
 んで、ペンションで朝ご飯を食べた後チェックアウト。荷物を預かってもらっ
て(大体「アイ・ゴー・ツー・ザ・ツアー。」と言って自分は今日ツアーに参加
することを述べた後「バッゲージ・キープ・プリーズ。」とか言えば理解してく
れます。by 山口。)、バス乗り場に。バスはミニバスと呼ばれる部類で、ワゴン
車を一回り大きくしたようなやつです。途中で人を乗っけたりして非常に狭かっ
たです。んで、トロイ。ここでも国際学生証が威力を発揮し、10,000BinTLが4,000Bin
TLに。実に6割引。
 トロイでしたが、まずトロイの木馬(の復元)に脱力。山口君の言を借
りれば「チープだよ。」「こんなあからさまに怪しいモノを城内に入れるなん
て何を考えていたんだ!?あそこに窓があるし、ご丁寧に階段まで付いてるし、
誰がどう考えても『中には誰か入ってますよー』っていうのがばればれじゃねえ
か!!」
はあはあ。ま、まあとにかく。遺跡自体はかなり整っていましたが
思っていたよりは小さかったです。あんまり詳しく知らないんで解説は省略。只、
バスに乗るのは簡単なのであえて現地のツアーに参加する理由はないと思われま
す。トロイの遺跡一つ巡るだけでウン十ドル取られるのは、いくら解説が付いた
としても何だかな状態。
 というわけで半ば幻滅状態でチャナッカレへ戻り、ようやくイスタンブールへ
向かいます。午後2時チャナッカレ出発、午後8時過ぎイスタンブール到着。車
内では「タイタニック」のトルコ語吹き替えが上映。実はタイタニックを見るの
は今回が初めてだったのですが、場面の雰囲気と人物の表情だけで大体何を言っ
ているのか分かってしまうところが凄かった。
 んでイスタンブール戻ってから宿を探すことにしたわけですが「宿泊客には地
下のバーでのベリーダンスショー無料」の「オリエント・ユース・ホステル」が
満杯状態。結局すぐ近くにあった「スルタン」に駆け込んだんですが騒々しいっ
たらありゃしない。特にぶち切れたのが屋上にあるレストラン・バーの女性店員。
チャイを注文したら男性店員が「ワンチャイ」と女性店員に声をかけるのですが、
店員はちらりとこちらを見た後なんか携帯でメールをし始めたり、他の客のジョ
ッキにビールをついだり。男性店員が二、三度声をかけてもチャイ一杯入れよう
としない。「黄色いサルに入れるお茶なんて無いわよ。」とでも言いたげな態度。
ふざけるな。てめえだって白いサルだろーが。(注:この発言は人種差別
者のみを対象にしています)結局別の男性店員を呼びつけてチャイを入れてもら
いました。もうその夜のうちに「明日は絶対宿変える。」と決心しましたね。わ
たしゃ。日本のマクドナルドの「いらっしゃいませー」が懐かしい・・・。

2002/09/25
 んでとにかくスルタンからコンヤに宿を変更。オリエント・ユース・ホステル
は結局満杯で、此度の旅行では泊まれませんでした。んで近くのランドリーにい
い加減たまりまくっていた洗濯物をお願いして、電話で現地のシンガポール航空
にリコンファームを行って。んでようやく観光。
 グランド・バザール行って結局何も買わなくてイスタンブール大学行って一休
みしてスルタン・アフメットのモスク群見てきて、Camとか言ううまくも不味くも
ない店で夕食をすませて、コンヤ備え付けの「ゴルゴ13」読みふけってその日は
おしまい。
 グランド・バザールは本当に広くって、かえって買う気が失せました。イスタ
ンブール大学は夏休みなのか学生が少なく、建物内も工事中の部分が多かったで
す。古い建物を流用しているせいか思ったよりも小さかった。ひょっとしたら学
部毎に敷地が分散しているのかもしれない。
 宿の近くでは市が立っていて、朝から夕方までいろいろな食料品だの雑貨が売
ってました。じつわ相変わらず下痢気味で食欲もほとんど無し状態に陥っていた
のです。はっきり言って外食よりも、そこの市で体の欲するモノを適当に買い漁
って宿の台所使わせてもらって自分の食いたい料理を作りたくて仕方ありません
でした。つっても市が立ったのはその日だけでしたけどね。イスタンブールに滞
在中は。
 コンヤペンションは日本人が本当に多く、オーナーの娘さんも日本に留学した
ことがあり日本語が普通に通じます。影響か、オーナーの奥さんも挨拶程度なら
通じます。また有志による日本文庫が充実しておりゴルゴ13をはじめいろいろな
漫画本、文庫、ハードカバーが適当にそろっています。娘さんに頼めば借りられ
ます。融通の利くペンションです。
 んで、とにもかくにもその日はゴルゴ13でフィニッシュ。

2002/09/26
 コンヤで朝食。トルコに来て初めてお代わり自由のチャイをもらった(よーす
るにティーポッドごとテーブルに出された)。じつわトルコのチャイに凄い期待
していたのですが、これまで飲んできたチャイはどれも一杯限りだったりLipton
のティーバッグですませていたり。幻滅していたので、このお代わり自由のチャ
イは非常にうれしかったです。ハイ。
 んでようやくイスタンブール観光に本腰を入れて望みます。午前中はトプカピ
宮殿の見学。宮殿のみなら学生料金だとロハ。ハレムはそれなりにとられ
ましたが。ハレムについてはガイドブックには列ができるほど混むとかかれてお
り、またチケットも宮殿のチケットとは別の売り場になっています。二、三十人
毎のグループになって英語・トルコ語のガイドが案内します。そんなわけで宮殿
に入って真っ先にハレムのチケット売り場に向かったのですが、団体旅行客がま
だ居なかったせいかすんなりとチケットを購入、それほど待たされることもなく
ハレムのツアーが始まりました。まあ・・・中は凄かったです。ハイ。っつって
も私の琴線には全く触れませんでしたが。
 ハレムのツアーの後は有名な宝物殿を廻ったのですが、こちらは文句なしに凄
い。知的興味は引きませんでしたが、とにもかくにもあれだけ宝石やら金を間
近に見せつけられたのは生まれて初めて
でしたねえ。しかもどの宝石もすっ
げえ大きかったし。
 その後ケバブサンドで昼飯をすませて考古学博物館を見て回りました。そこで
しばし休憩した後、地下宮殿へ。昔貯水池として利用されていたそうで、ひっく
り返ったり横になったメデューサの首が拝めます。
 その後ブルーモスクをだらーっと見物して、日本語の上手なおじさんにいろい
ろ解説されて、絨毯屋に連れて行かれて、逃げてきて、適当な場所で夕飯を済ま
せてその日はおしまい。夜も相変わらずゴルゴ13(山口君のセレクトでした)。
 何かこれまでトルコ料理食べてきた感想ですが、まずガイドブックにある店
が今も営業中かどうかの時点ですでに怪しいです。
特にイスタンブールでは
競争が激しいせいか、それとも私たちのセレクトに運がなかったのか選んだ店の
半分近くが地図の場所に存在しないか、潰れていました。山口君の談によると、
日本ほどいろんな国の料理が食べられたりファミレスがある国は珍しいらしく、
多くの外国ではその国の料理しか店がないそうです。実際、遺跡とかのある観光
地はともかくアンカラやイスタンブールという都市部でさえトルコ以外の料理店
がひどく少なかった、もしくは見かけませんでした。ファーストフード店もトル
コ料理としてのファーストフード店でしたし。そんなわけで同じ分野の店同士競
争が激化しているのかもしれません。
 また、はっきり言って庶民的な店では英語が通じにくくなります。こっちも片
言、向こうも片言状態。んでもって右も左も分からないトルコ語メニュー。結局
「Soup」とか「Kebab」とか、ありきたりのメニューしかチョイスできない羽目に。
まあ注文自体は最悪、筆談で乗り切ったシーンもいくつか有りましたが(とゆう
か注文ミスを防ぐため。)、この旅行では、自分で店で注文した料理で満足でき
たのは殆どありませんでした。後半はずっと下痢気味で食欲ゼロ状態でしたし。
 そんなわけでもしトルコでグルメをしたいならトルコ語に堪能になっておくか、
もしくはさっさと団体ツアーに参加しちゃった方がいいと思われます。ツアーな
らホテルの食事や、確実なそして代表的で観光客の舌にあわせたトルコ料理を食
べさせてくれるはずですから(と言ってもトルコにツアーで行ったことがないの
で確証は出来ませんが)。
 結局旅行後半、もっとも満足できた食事がイスタンブールの中国料理店(あ、
名前忘れた)。二人前コース料理で一人8,000Bin。中国茶をオプションで注文し
たらジャスミン茶が出てきました。女将さんがすっげー暇そうで、12時を廻っ
ていたのに私たちしか客が居ず、「儲かってんのかな」と思わず不安になりそう
で後になって夕食時に店の前を通るもやはり人っ子一人居なく不安この上ない店
でしたが、味の方は中の中でうまくも不味くもなく。ジャスミン茶がお代わり自
由が最大限に評価できた店でした。

2002/09/27
 本来なら、「試しに一泊百ドル以上の高級ホテルに泊まってみよう」と宿を変
える予定だったのですが。ベリーダンス+お食事ナイトショーが予約できること
を知った山口君はオーナーの娘さんに頼んで予約+その関係でもう一泊すること
を頼みました。8時くらいに迎えのバスが来て、送迎サービスがあるらしいです。
 この日はアヤソフィアに赴きました。以前はモスクだったのですが現在は入場
料をしっかり取る博物館もどきとかしています。なんか工事中だったみたいでド
ームまで届く巨大な足組が中央にそびえていました。っつってもやっぱりガイド
無しじゃああんまり(私にとっての)知的興味もわかず、ざっと見て回っておし
まい。
 になるはずだったんだけど。
 なんか山口君がベルガマの壺で座り込んでしまい、不機嫌と言うか鬱モードに。
声をかけても反応せず、仕方なく近くを見てたり外に出て待ったり。2時間強そ
のような状態が続いてやっと出てきたかと思えば「いい加減二人で廻るの飽きた。」
 というわけで、昼過ぎ以降はこの日は別行動。ベリーダンスの関係もあるので
7時までにコンヤに戻ることを確認した後山口君は新市街へ。私はグランド・バ
ザールにトルコ石を買いに出ました。結局ラピスラズリを一個買って来ただけで
したが。だって気に入った形のが無かったんだもの。
 その後私はホテル代のためにお金をおろしたり、周りを散歩したりして宿に早
めに戻り漫画読んでました。6時くらいに大分元気になったらしい山口君も戻っ
てきて、後はベリーダンスを待つだけ。
 8時を少し廻ってお約束の送迎バスがやってきました。私たちの他にも予約客
がいて、すでに乗っている人。またこれから拾ってくる人たちなどでぐるぐるイ
スタンブール市内を廻り車内は満杯状態に。んで結局9時頃くだんのベリーダン
ス+ナイトショーに到着。すでに踊りは始まっていたみたいで、入ってまもなく
ベリーダンスが始まりました。おへその出し過ぎで妖艶を通り越して健康的とい
うか、色っぽさを通り越して芸に徹しまくった踊りでした。
 まあ見てもらった方が早いでしょうから、どうしても気になる人はトルコに来
てください。
 その後歌手っぽい中年男性が出てきて、まあいわゆるナイトショーというやつ
に。お客を舞台に上げて歌を歌ったり、踊ったりしてました。
 そんなこんなで24時。送迎バスで戻してもらってその日はおしまい。

2002/09/28
 今日こそ宿を変えて、高級ホテルに泊まる日です。コンヤをチェックアウトし
て「ヤスマック・スルタン」へ。きれいなバスタブ・24時間熱いお湯の出るシ
ャワー。西洋便器。ああ・・・百ウン十ドルの素晴らしさ。ただしランドリーサ
ービスが重量制じゃなくて服の種類別。しかも一着ごとに料金を取るもんだから、
そんなに汚れ物が切迫しているわけでもなかったし明日29日は早くに空港に行か
なくてはならないのでランドリーサービスはあきらめました。
 んでその後前に書いた中国料理店でブランチを食べて、私は疲れたのでホテル
で昼寝。山口君はグランド・バザールでおみやげ買いに出ました。その後夕飯を
食べようと外に出たのですが、またも目当ての店が存在せずやむなく適当な店に。
 んで、その日はお終い。明日はいよいよ空港に行ってトルコ出国。

2002/09/29
 ・・・もう、あまり書くこともないでしょう。朝早くホテルをチェックアウト
して、朝飯も食べずに電車に乗ってイェシルキョイ駅に。最初は歩いて空港まで
行こうとしましたがさすがに限界が来て山口君がタクシーをゲット。
 その後は適当にシンガポール航空にチェックインして、ゲート通って、飛行機
乗って、来たときと同じくDubai空港で1時間弱待って、給油した後シンガポール
について。

2002/09/30
 シンガポール付いたときには30日の朝で。二時間ほど待って10時の成田経由ロ
サンジェルス行きの飛行機に乗り継いで、成田には午後5時半くらいに到着。台
風上陸の前日だったらしく、雨が降ってました。
 以上。まっすぐ豊田まで帰った後、てんやで天丼食べて山口君と別れました。

感想・・・いや。疲れたというか。あんまり疲れた感じはしないんだけどね。で
もまあ、無事に帰ってこれて良かったんじゃない?それだけで十分です、ハイ。
というか今、朝の4時だし。いい加減書く気力がつきてきたのでお終いにします。

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