時々自分の葬式、どうしようかと考える時があり、「やっぱり墓は要らないし戒名も要らない、余計な儀式は抜きで散骨してお仕舞いにしてほしいな」と考えているのだけど、同じような考えが増えていたようだ。 - 痛いニュース(ノ∀`):「葬式はいらない」という人が急増…「誰にも迷惑かけずに消えてなくなりたい」 -- http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1310388.html - 【直葬 ~消える弔い~】(上)消えてしまいたい(産経新聞) - goo ニュース -- http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/m20090922003.html 現代の葬式は死者と生者の間で境界線を引く為のオマジナイの一種と自分は捉えている。 儒教的な部分や、日本古来の(どちらかというと神道寄りの)死生観とかが混ざった上に、江戸時代に広く庶民の間にまで浸透した「オマジナイ」の形式が、親戚・知人を一同に集めて戒名貰って埋めて貰った後も○回忌の毎に法要を執り行う、というスタイル(お作法)だと考えている。 まぁ、京極先生の完全な受け売りだけど(爆。↓↓ #amazon||> ||< ただ「オマジナイ」もそれが意味を持つ時代や文化・風習の中でしか効果を発揮しない。ようするに8bitマイコン用に作られた実行コードを32bitWindows上で実行しようとしてもエラーになるのと一緒だ。あるいはPHP4ではXMLを扱うのにPEARの助けを借りる必要があったが、PHP5でsimplexmlが使えるようになったのでPEARのXML関連パッケージが不要になったのに似ている。PHP3ではセッション管理を自前で行う必要があったが(PHPLIBとか)、PHP4以降組み込みのsession関数が使えるようになるのとも似ている・・・ってちょっと違うか。 生者と死者の間で、生者側から一方的に境界線を引くのが「お金と手間のかかる」葬式であるとすると、もしも生者側が居ない場合、当事者は死者だけとなるので境界線を引く意味を持たない。 親しい知人・友人・家族が居ない、あるいはひどく遠方に住んでいたりしてつきあいが少ない、というような人間は、高齢・壮齢・若年関わらず増えていくとするならば、お金と手間のかかるお葬式は「境界を作るオマジナイ」としては意味を失うのでは無かろうか。 境界線をわざわざ引くのは、「けじめ」を付けるほどに生者が死者と精神的な関わりがあり、思いが強いからだろう。 逆に言えば、そこまで関わりが強くなく思いも薄い人達しか生者に居ないとすれば、わざわざけじめをつける必要は無くなる。境界線を引かずとも、死者は既に彼岸に居る事になる。 社会構成も文化も、もはや江戸時代/明治/大正/昭和初期/大戦中/経済復興期とは違ってしまっているのだから、これからもこの記事のように、かつての「オマジナイ」「お作法」「スタイル」が意味を失い、無効化するケースは増えていくだろう。 まぁでも、当然で自然の事なんだから後は自分はどうしようかという好みの問題になるだろうなぁ。 さしあたり、今の時点ではそうした葬式に関する簡略化要望は遺書にしたためておかないと、残された家族の周囲からの視線を考慮すると困るようだ。 いっそのこと「葬式よりもこれからの生きる人間の為に金を使え、もし葬式で10万円以上使ったら、『何故儂の言う事を無視した~』と末代まで祟ってやるぞ」くらいの遺言を残しておいた方がよいのかも知れない(w。