2018-04-30 から 2018-05-04 まで、4泊5日で奈良エリアの遺跡・寺社仏閣を回ってきた。 主な目的: - 聖地巡礼 :「火の鳥」ヤマト編/鳳凰編、「三つ目がとおる」(酒船石遺跡)、諸星大二郎「暗黒神話」(亀石など)、山岸凉子「日出処の天子」(飛鳥・斑鳩エリア) - 仏教伝来~奈良仏教が興った場所を実際に行ってみて、仏像や寺などの物見遊山。 結果として、奈良旅行におけるメジャーどころをほとんど巡ることができた。 行ってないのは、石上神社~三輪神社の山の辺の道エリアだが、三輪神社については学生時代に行ってるのと、今回は仏教の「起点」を見に行くという目的なので外した。 (じつは大学3年か4年に、古事記や同様に三つ目がとおる・暗黒神話系をテーマに奈良、特に飛鳥エリア・三輪山エリアは回っている。今回は仏教の起点テーマなのと、折角なので飛鳥エリアをもう一度回って、写真撮ってみたい、という目的) 5日間、延々と歩き回って寺を回って、しばらくお寺参りは行きたくない位に回り尽くした。 #more|| #outline|| ---- * 行った所 以下、実際に行った所。 ** 4/30 : 初日、移動→法隆寺(斑鳩エリア) 10:30 JR東海道新幹線 のぞみ 223 号 東京発, 12:38京都着, 13:03 京都駅 8番線発 JR みやこ路快速奈良行 -> 13:49 JR奈良駅到着。 その後宿泊先のABホテル奈良にて荷物を預け、JRで法隆寺駅まで行ってそこからバスで法隆寺へ。 行けたとこ: - 法隆寺 - 中宮寺 法隆寺の寺域に中宮寺もあるので流れで回った。法隆寺を出た時点で16時を回っており、レンタサイクルで法輪寺・法起寺を回るのが時間的に無理だったのでそこで終了。 ** 5/1 : 飛鳥エリア 朝8時台からJR線・近鉄線を乗り換え経由で飛鳥駅へ、そこから明日香レンタサイクルで自転車で回る。体力に自信無ければ、電動自転車を推奨。割と坂の上り下りが多い。 飛鳥駅まで戻ってきて15時過ぎ位だったので、奈良に戻る途中にある橿原神宮に参拝。 行けたとこ: - キトラ古墳 - 高松塚古墳 - 亀石 - 二面石 - 石舞台古墳 - 橘寺 - 岡寺 - 酒船石遺跡 - 飛鳥寺 - 飛鳥資料館 - 鬼の雪隠、鬼の俎(まないた) - 猿石 - 橿原神宮 この日を飛鳥エリアにして正解だった。5/2は終日雨, 5/3 も午前中は曇りで降るか降らないか微妙な天候だったので、自転車で安全かつ快適に回れるのはこの日しか無かった。 また、地元か近隣地域の小学生・中学生の遠足で、団体とのエンカウント率が高かった。石舞台古墳・高松塚古墳・飛鳥寺・亀石といった、メジャーどころで渋滞。 ** 5/2 : 東大寺・春日大社エリア JR/近鉄 奈良駅付近に宿を取っていれば、9時過ぎからゆっくり出かけても十分時間は取れる。 なお、教科書に出てくる正倉院の正倉は、平日しか見物できない。事前の天気予報とすり合わせると、この日しか正倉院を見に行けるタイミングが無かった。 行けたとこ: - 興福寺 - 東大寺 - 正倉院(正倉) -- ※もともと倉庫は複数建てられてたが、年月の内に燃えたり壊れたりして、唯一残ってるのが教科書に出てくるあの倉一つだけ、という状況。 - 春日大社 - 元興寺 あいにくの雨模様にも関わらず、修学旅行や遠足で小学生~高校生くらいの団体でどこも賑わっていた。 小学生くらいの遠足の団体が、雨の中、東大寺の庇の下でお弁当食べてるのがかわいそうだった。(大人数の団体を収容できる、屋根のある建物が実はあまり無い。晴れてれば近くの芝生で広々とくつろげるところだが・・・) また、5/2は東大寺で聖武天皇祭があり、そのためか正面からの大仏は見れなかった。(正面に行事用の席などが設置されていて、観光客は正面から大仏を見れない状況) ** 5/3 : 吉野山エリア 朝8時台の近鉄奈良駅から、大和西大寺駅で乗り換えて橿原神宮前駅でさらに近鉄吉野線に乗り換え、吉野到着が10時と、たっぷり2時間かかった。 吉野ロープウェイが運休状態で、吉野駅からバスが出ておりそこから如意輪寺・中千本までバスが出ている。中千本まで来たら、さらにそこから奥千本までバスが出てるので乗り継ぎ。 今回は先に奥千本まで行って金峯神社・西行庵まで行ってから、戻る(山を下ってく)方向にしてみたがそれで正解だった。吉野駅から徒歩で金峯神社まで登れなくはないが(一応舗装道路になってる)、かなり坂道がキツイところもある。 なお下りは下りで、ずっと坂を下ってくのでそれはそれでキツイ。が、上りほどではないのと、下ってくだけという精神的な余裕がある。 行けたとこ: - 金峯神社 - 西行庵 - 吉野水分神社(「水分」のところを「みくまり」と読む) - 吉水神社 - 金峯山寺 金峯神社から西行庵までは基本山道で、申し訳程度に石段がついてる程度。そのため、雨が強い日は足元がかなり危ない。この日は5/2の雨がそれほど強くなかったこともあり大分足元が落ち着いていたこともあり、なんとか滑らず・転ばずに回れた。 西行庵近辺は、やたらと木が切り開かれており、代わりに若い桜が植えられていた。帰る途中のカフェで聞いた所、西行庵近辺は奥千本といってもそんなに桜が無くて杉の木がメインだった。で、杉の木を切ってしまって変わりに桜を植えていこうとしてるとのこと。 ** 5/4 : 西ノ京エリア JR/近鉄 奈良駅近辺の宿であれば、西ノ京までは電車・バスともにアクセスしやすいので、9時ごろからのゆったりお出かけでも楽に回れる。 実際この日は、平城京跡の見物も含めて JR奈良駅 8時40分台のバスで薬師寺に出発~平城宮跡見物してバスで戻ってJR奈良駅に 14時戻りと、半日過ぎ程度で回りきれた。 行けたとこ: - 薬師寺 - 唐招提寺 - 西大寺 - 平城宮跡(朱雀門・第一次大極殿) GWど真ん中ということもあり、大和西大寺駅の近鉄のレンタサイクルで自転車借りようとしたら予約で全部埋まってるとのこと。ちょうどGWに合わせて平城宮跡でお祭り・イベントもやってて、バス・自動車がめちゃくちゃ混んでた。 平城宮跡は基本、原っぱでした。 なおこの日はやたら風が強かった。気圧配置の変化と共に、山からの吹き下ろしの風が盆地を吹き抜けてくのかも。 ここまで回ってきたお寺のパンフレットに書かれてる歴史などで、やたら失火や焼失があちこちで多いなーと思ってたが、戦による焼失以外にも、こうした盆地特有の強風にともなう、燭台が倒れたりするなどの失火も原因として多かったのではないか。 * 食べ物 - 今は奈良野菜といって、奈良盆地でとれた美味しい野菜を売りに出してる。 -- JR奈良駅でも奈良野菜や奈良の豚・鳥など料理で出してくれる産直販売店が出てる。 -- 奈良野菜を奈良漬にしてあちこちでお土産に売ってる。 - 柿の葉寿司美味しい。 - 「飛鳥の蘇」という名前で、飛鳥時代の古代チーズを復元して売ってる。匂いのしないカッテージチーズみたいな感じだった。 - 古代のお米を再現した、雑穀米も美味しい。 - 三輪そうめんも美味しい。 - 吉野葛を使った葛餅も美味しい。 - ほうじ茶で粥にした、「茶粥」というのも当時のレシピを再現したらしい。美味しい。 * 感想 (素人の感想です) 奈良盆地について: - 飛鳥・平城京エリアを見て回ったが、全体的に北を除く四方を山で囲まれた平たい盆地、奈良盆地の利点が感じられた。 - 今ですら、ちょっと高い建物に登れば遠くの山まで見渡せる。6-7世紀当時であればなおさら見通しが良かっただろう。 - つまり、為政者にとっては広く見渡せて、何が起こっているのか把握しやすい土地だったのだろう。 - また、周りが山に囲まれているので、木材・石材の調達も比較的容易だったのではないか。古墳や木造建築の造営で材料には困らない土地柄だったのだろう。 - 今はのどかな田畑が広がっていて、お米や野菜、畜産物が美味しい土地になってる。 仏教について: - 仏教伝来は6世紀半ば~後半といわれている。実際に飛鳥時代に仏教が興ったのはやや遅れて7世紀初頭になってから。 - 伝来からやや時間が経って、為政者にとっての有用性が認識されだしたのではないか。最新の中国・朝鮮の知識・技術に付随する思想・哲学背景として扱われたのではないか。 - 実際南都六宗は墓を持たず、仏教を哲学として学び、国家鎮護の呪術として実践するのが主だったと言われる。 - 当時の神様・神宮を主体とした宗教・政治・経済のエコシステムに対して、巨大な木造建築を可能にする各種技術、またそれを必要とする思想背景をワンセットで導入する、そのツールとして仏教が導入されたのかもしれない。 - 今もそうだが、神様については実体が見えない。山やモノに潜んでいて、神社にある御神体はあくまでもその依代として鏡や刀剣、勾玉が安置されている。それ自体が神ではない。 - 一方で仏教は、伝来時点(6-7世紀)で仏像が既にあった。ひと目で目に見える姿と形があり、莫大な言説(経典)もあった。 - つまり宗教・思想背景・哲学・道徳としての情報量として、仏教が当時は圧倒的な強さを持っていた。 - また仏教の特性として、「生き方」「死後」について研究されていた点も、当時の八百万の神と対照的である。当時の神については、そうした道徳的な物差し、死後の世界についてはあまり語る物を用意できていなかったのではないか。 -- 八百万の神は、人間がどうにかできるものではなく、自然として動かせない。 -- 一方、仏教はどう生きるか、死後どうなるか、について当時から言説を準備できていた。つまり人材育成における道徳教育のツールとして利用できた。 - それに加えて、中国で築き上げられた仏像や伽藍・経堂など最新の建築技術が仏教に付随していた。渡来人の信仰ともワンセットになっていたと思われる。 - 実際、今に至るまで残っている巨大木造建築物は、特に奈良時代のものはほとんどが仏像・五重塔・伽藍など仏教建築物関連である。 -- 神社は式年遷宮などで宮を造り変えているので残っていないとも言える? - 巨大木造建築では大人数の人足や多量の木材・石材を消費する。 - つまり仏教を広める = 寺を建てる、つまり巨大公共事業の遂行に他ならない。 - 総合的に考えると、国家体制や経済の強化が急務であった当時の政治において、技術(=経済)と道徳をワンセットで導入できる非常に美味しいツールとして仏教を導入したのではないか。 -- 特に寺を建てる、寺域を整備するというのは、経済を盛り上げるための一種の巨大公共事業という性格を帯びていたのかもしれない。もちろん、それにより中国の建築技術をコピーする機会、という狙いもあったのだろう。 - ただ仏教の思想背景や哲学理解として、当時既に大量の大乗仏教の経典が100年くらいの年月で一気になだれ込んだのが難しいところ。 -- これらを噛み砕くための勉強・研究を専門に行う必要が生じ、これが奈良仏教が、主に国家主導となり、教義研究に傾倒した理由だろう。 古墳と仏教と: - 石舞台古墳など、誰の墓か分からないような古墳が多数点在する一方で、それと同年代に造営された寺・寺域・仏像が今も残っていて、歴史を伝えているのは対照的で面白い。 - 特に飛鳥時代は、古墳から寺への移り変わりの真っ只中で、石舞台古墳と飛鳥寺が同時期のものであるのに、感覚が追いつかない。 国家・仏教の起点としての飛鳥・奈良時代: - 3-4世紀を経て、6世紀になって急速に国家として形を整えていく中で、起点となったのが飛鳥。そこで、中国からの思想・技術を大量に輸入して、政治体制や思想のリニューアルを行ったものと思われる。 - これと同様のリニューアルが行われたのが、恐らく幕末~明治期なのかも。 -- 国家主導での新しい哲学・技術の導入、旧体制と新体制の衝突と遷移、過去の塗りつぶしなど色々オーバーラップするところがある。 仏教の「起点」として奈良・飛鳥を回った目的は十分に達成できた。 しかし、起点としての仏教は個人の生き方や心の有り様ではなく、当時の国家体制の動乱の中で、国を造り変えるためのツールとして存在していたように感じられた。。 そのため、奈良仏教を現代日本人のライフハック・ライフスタイル・人生相談のツールや下敷きとして使うのはかなり難しい印象を受けた。