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読書メモ/「まんがでわかる 7つの習慣」

読書メモ/「まんがでわかる 7つの習慣」

読書メモ / 「まんがでわかる 7つの習慣」
id: 1331 所有者: msakamoto-sf    作成日: 2014-12-30 16:41:57
カテゴリ: 読書 

「アメリカンな自己啓発書ってどんな感じかな~」とつまみ食いしてみるくらいの感じで購入してみました。

企業研修サービスなど提供している、日本法人があるんですね。上場企業などでの導入事例もあったり、研修内容も色々な世代・役職別にカスタマイズされてて、参考になります。

  • 7つの習慣、リーダーシップ研修・セミナー|フランクリン・コヴィー・ジャパン株式会社

ただ、どうもこういうのって、「成功」とか「結果」「成果」という単語を連呼するわりには、それって具体的にはどういうこと?という点について書いてくれてないんですよね。
今までは「結局お金のことかな?」と邪推してたんですが、今回マッピングしてみまして、あえて特定してないのかなーとも思いました。それにより、特定分野にしか通用しないわけではなく、仕事やビジネス、日常生活、人生など、色んなスケールで適用できる、という遊びを確保してるのかも、と今は思います。

仏教とを勉強中の身としては、「あ~、仏教でいうところのこれかな~」的なのが多く、ちょっとマッピングしたくなりましたので、そのメモです。最初に「ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)」(中村元)からマッピングできそうなのを抜き出し(法句経)、続いて超ざっくりと現代のコンテキストならこういう解釈になる、というのと簡単にメモしてます。(一部、「ブッダのことば (岩波文庫)」(中村元)=スッタ・ニパータからも取ってきてます。)

※マンガで思いっきりサマライズされた、入門書の内容を元にしてますし、自分の仏教の理解自体が危うい点もありますので、間違ってたらごめんなさい。

習慣1: 「主体的である」

「ささいな行動でも、感情的な反応に身を委ねたり、受け身で行動するのではなく、自分で振る舞いを選択する意識だ。」とマンガでは見出しにありました。

法句経1-5:

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足あとに車輪がついていくように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。車をひく牛の足あとに車輪がついていくように。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに止むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、つに怨みが止む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みをすててこそ止む。これは永遠の真理である。

法句経160:

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

仏教では、「自分のもの」というのは感情も含めてありません、という話があります。無我とか。
視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚などから入ってくる情報に対して、自動的に反応して世界を感じてしまっている。
そのため、「こんなことを言われて傷ついた」とか「なんであの人はこんなヒドイことを言うんだ」とか、あるいは「褒められて嬉しい」とか、そういうのは自分が意識的にそう感じたのではなく、感覚で入ってきた情報に反射的に沸き起こってきたものなので、それに振り回されることは無いですよ、というのがポイントになってきます。
一見、刹那主義というかニヒリズム的な感覚があります。
しかし「だから所詮~なんだ」と捉えるのではなく、仏教がこれを扱う本来の目的としては「平穏に心穏やかに過ごす」ことにあるので、この事実をもって、他人からの悪口や批判にいちいち感情的にムキーッとなったり、賞賛や褒め言葉に舞い上がってはいけませんよ、というのがポイントです。
その上で、他者に対する善行(布施)を積みなさい、となるわけです。

また仏教では実践による確認を推奨しています。上記の理論を頭でなぞっても、本当にそうなのか、試してみないと分かりません。じゃぁ実際に瞑想で感覚と意識について体験してみたり、日々の生活で実践してみて、何か改善されるものがあるか自分で確認してみましょう、というのが仏教の懐の広さだと思います。

さらに、仏教の説話で、お釈迦様が弟子たちに、「小石がごろごろ転がった歩きにくい道を歩くにはどうするか?」と問いかけ、弟子たちが「道路を鹿の皮で覆えば、裸足でも歩けるようになる。」と回答しますが、お釈迦様は「鹿の皮ですべての道路を覆うことはできない。自分たちの足を鹿の皮で覆う方が現実的」と応えます。
仏教における「鹿」とその皮を例えに持ちだした点についてはさらなる解釈が必要そうですが、重要なのは、世界を変えるのではなく自分を変えたほうが現実的である、という点に思います。
(これ、ひろさちや氏の著作には出てくるんですが、ソースとなる経典が今ひとつ不明なので、どの時代と系統に属する説話なのか不明であるため、コンテキストがちょっと危うい。)

まとめますと、仏教でも、他人からの悪口や褒め言葉に一喜一憂せず、自分が感じている世界に振り回されず、その上でより良い行いを自分がするにはどうすればよいか、考えていきましょう、と言ってるわけです。

ということで法句経1-5, 160 で、自分の心を細心の注意で扱えよ、というマッピングでした。

習慣2: 「終わりを思い描くことからはじめる」

わざわざ仏教説話にマッピングする必要はない位に、あちこちで言われてることだと思いますが、あえてマッピングしてみます。

法句経148:

この容色は衰えはてた。病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。

法句経6:

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、この断りを知る人々があれば、争いはしずまる。

「終わり」となりますと究極的には「死」です。仏教では生老病死を「四苦」として、生き物はすべからくこの4つの苦しみからは逃れられないとしています。そこから外れ、二度とこの四苦を味合わないために「悟り」を開いて「解脱」する、という流れです。(超サマライズしてます)
仏教には、生きてる中で、心を穏やかにして日々を平穏に過ごすことを目的とした技法が詰め込まれてます。
その中に、無我をキーワードとした瞑想法や修行法も含まれています。
ですが「無我」という思考フレームワークはあくまでも感情や意識の奔流に飲み込まれないようにするための道具なので、無我それ自体に拘ってもしゃーない、というのも仏教にはあります。
有名なのが毒矢の例えで、お釈迦様のもとにある弟子が、「世界は永遠なのか、世界は有限化、霊魂と肉体は同じものか、如来は死後にあるか、気になって修行に身が入らないからいい加減教えろ」と詰め寄ります。
お釈迦様は、「それは、毒矢を受けた人を前にして、その毒矢は誰が射ったものか、その矢はなんでできているのか、云々しはじめたら、射られた人は死んでしまうだけなので、まずその毒矢を抜き取るところから始めなさい」と応えます。
目的はあくまでも悟りを開いて解脱するところにあるのだから、まず煩悩を制御し、日々を平穏に過ごせるようにするのが重要、という実践重視の考え方です。

スッタ・ニパータ5:

無花果の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見出さない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮して古い皮を捨て去るようなものである。

ということで、目的を定めて、そのためになすべきことをしていく、手段と目的と取り違えない、ということは仏教にもあります。
では「目的」や「なすべきこと」はどうやって決めていけばよいのか。これについても色々マッピングできそうなキーワードがあるんですが、ここでは「布施」をマッピングします。
布施は見返りを求めず、自らの人生を豊かにするために善行を積んでいく行いです(超サマライズ)。
ポイントとしては「1. 自分にできることの範囲でなにが出来るか考える」「2. 無理はしない」の2点があると思います。
究極の布施は、自らの命を投げ打って相手の生命を助けるという極限行為になります。しかし日々の生活ではそこまでのことは出来ません。
そのため、無理をしない範囲で、自分にできることはなにかを考え、それによる目的と手段の設定がポイントになります。
その時のガイドラインとして「自灯明、法灯明」という考え方があります。まず自分自身の考えや思考に注意を払い、それを根っことし、続いて釈迦の教え(法)を拠り所とせよ、という教えです。自分の価値観や考え方、良い点、悪い点を大切にしつつ、仏教のガイドラインを活用して善行を積んでいくわけです。

ちょっと無理があった感じがしますが、目的と手段の取り違えに気をつけなさいという教えや、「布施」「自灯明、法灯明」をベースとした人生の意味を見出す方法論など、しっかりと仏教にも含まれてますよ~という話でした。

ということで法句経6, 148で「死を想え」、さらにスッタ・ニパータの5で生きる目的について、というマッピングでした。

習慣3: 「最優先事項を優先する」

書籍の方では時間を4つの象限にわけて、「緊急で重要度の高い作業」の次には、「緊急でないが重要度の高い作業」に時間を振り分けると良い、というアドバイスしています。

法句経292:

なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

仏教では・・・ちょっとマッピングに苦しみますが・・・瞑想とも関係しますが、「"今"に意識を向ける」というのがあります。
感覚・意識は自分のものにならない、というのを実感するために瞑想があったりしますが、体験方法の一つとして「自分が今しようとしていることを常に意識する」とい方法です。
自分を客観的に把握し、「自分は今、こうしようとしている」「自分は今、こういう事を考えている」と常に一歩後ろから見ていく訳です。
それにより、自分が自分だけで構成されているわけではなく、あらゆる外部環境からの入出力で成立している仮の姿であることを実感するわけです(ドヤァ)。

それはより日常的な感覚に落としこむと、「今を丁寧に生きていく」という表現に落とし込まれ、最終的に人生で一番大切と思われることを優先し、丁寧に生きていくという方法論になっていきます。
大切と思われることはなにか、というところまでは明確になっていませんが、仏教ではこのような、時間の使い方に関する思考フレームワークも提供しているという次第です。

ということで法句経292, 今やるべきことに意識を向けて、今を大切に生きましょう、というマッピングでした。

習慣4: 「Win-Winを考える」

法句経67:

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

法句経68:

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

法句経201:

勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。

相手から奪うのではなく、自ら勝ちを手放し、相手に与えるというのは「布施」の考え方に近いと思います。
また、相手を傷つけてまで自分の利益を確保しようという行いは、将来に対する不安やリスクを増やし、結果として日々悩みを抱えて生きることになり「煩悩」となります。
その点からも、他者を傷つけたり貶めたりするなどの悪行を積んでまで、自らを利するような行いは仏教では止めたほうが良いとされています。
無理・無茶な要求を受け入れる必要はありませんが、誠実さや社会一般の良識にしたがって、自分と相手の両方で利益を得られるよう考えるのは、仏教でも十分推奨されるアプローチです。

ということで法句経67, 68, 201, 後で公開するような勝ち方はするな、勝敗自体を捨て去った大胆なアイデアでWin-Win目指そうぜ、というマッピングでした。

習慣5: 「まず理解に徹し、そして理解される」

法句経1:

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足あとに車輪がついていくように。

ちょっとマッピングに苦しみますが、これも無我の話に関連しそうです。
相手が話を聞いて欲しい、と話をし始めても、つい「自分が~」「自分なら~」と、自分を優先にして話をしてしまいがちです。
それは結局、相手を満足させたり理解したりすることにはつながらず、単に自分を一時的に満足するためだけになり、相手にとっては悪い印象しか与えません。
相手の話ではなく自分の話にしてしまうのは、耳で聞こえてきた相手の話に対して、反射的に自分の話をぶつけて自分の心を満たしたいという側面があります。
仏教的には、そこをまず押しとどめ、相手の話をありのままに聞いてあげて、相手の欲するところを汲み取って答えるほうが良い結果になりそうです。

ということで再登場ですが法句経の1, 心が感じた「俺が~自分が~」に反射的にしたがって話してもいいこと無いよ、というマッピングでした。

習慣6: 「シナジーを創り出す」

法句経63:

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。

悟りを開いたお釈迦様であれば沸き起こる知恵でもって色々できるのかもしれませんが、日常を生きる自分たち一人ひとりにできることは限界がありますため、他の人と組んで生きていく必要があります。
仏教としてのポイントは、「自分ならこれくらい知ってる、これくらい出来る」と慢心したり天狗にならず、素直に他の人の良さ・力を認めて、助けを乞うのが良い、という点です。
ということで法句経63, 自分が知らない点を自覚して、素直になれよ、というマッピングでした。

習慣7: 「刃を研ぐ」

法句経296, 297:

ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

良い行動を習慣としておく話になりますが、仏教でも同様、善い行いを日常の生活の中で実践することが重視されます。
ということで、法句経296, 297で、仏弟子はいつも仏と、その教えに気をつけて昼も夜も過ごしてますよ~というマッピングでした。


前々から、欧米系の自己啓発などの考え方について、「これって仏教のあれだよな?」というのが気になってました。
今回が初のマッピングになりますが、案外、なんとか牽強付会すればこじつけできるもんですね。
一応現代のコンテキストでの解説を入れてみましたが、勉強中の身、そうとう間違ってる箇所もあるかと思います。
もし本気でマッピングを検証されたい場合は、以下を参考にしてみてください。てか、こっちを先にマッピングの参考にして、経典は中村元氏の著作から引用してきてます(汗)。


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現在のバージョン : 1
更新者: msakamoto-sf
更新日: 2014-12-30 16:45:24
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